
絡み合う<前編>
女郎蜘蛛がオンシーズンだ。大きな巣が雨の後などキラキラ輝いて見事。直径2メートル近いものもあり、どうやってこんな遠くまで巣の端を作りに来るのだろう。お尻から糸を出してぶらんぶらんと風か何か利用して? 自分でもフンッと行きたい方へ腹筋かなんか使ってるのか。“ダーウィンが来た!” あたりで巣が出来るまでを高速再生とかしてくれまいか。など色々ご苦労に思いは馳せる、生命の妙に感嘆する。が、ここは私のおうちで、私も生き物だ、縄張り争いせねばならぬ。どれだけかけて作り上げたのか知らぬが、すまん、鎌やなんやで取り払わせてもらう。
隣に住んでる叔父は、あいつらは賢くて、壊された同じ所には巣を張らない、と言うけれど、ホントかなあ。
小さい編み物が好きだ。棒針よりかぎ針編みが好みで、真ん中から螺旋上に一本糸で紡いでいくのは蜘蛛の巣と同じ。女郎蜘蛛ほど大きい作品は滅多に作らない。たまに思い立って大作に挑んでも、まあ挫折する。飽きたり、前身頃と後見頃の目数を間違えて萎えたり、はいだり綴じたりが面倒くさくなったりで、編みかけのセーターが何枚あるだろう。どうにかする気も起こらず、捨てられもせず、丸めて袋詰めにされ場所ふさぎになっている。蜘蛛の巣の真ん中にぶら下がっている、後で食べるために糸で丸められている獲物のようだろうか。うーん、糸を探す時に見つけて「あ、これ編み切ってないやつだ」とげんなりするばかりで、ちっとも栄養にはなっていない。こういうのは断捨離対象なんだろうな。捨てると運気が上向くという。ホントかなあ。
だいたい開運って何よ。捨てた分だけ新しいものが流れ込んでくる、巡りがよくなると聞くけれど、そもそもお気に入りはほぼ変わらないので、新しくなくてよい。どちらかというと、「えっと、確かあれ持ってたよな…、そうそうこれこれ」と使う場合の方が多い。探して「あ、捨てたのか」と思い当たると断捨離ブームに乗せられた自分にとてもがっかりする。一年以上着ていない服は捨てろと言うが、今日着たブラウスは8年ぶりくらいに袖を通した。やっぱり好き。合わせたスカートを買ったのは20代、ずっと一軍アイテム。そりゃあ穿いた時のシルエットは変わってくるが、気に入った服に身を包むご機嫌さ加減は変わらない。今のところ、断捨離の爽快感より、抱え込んだものを大事にする方が私にはそぐう。捨てなきゃいけない、さようならの時は勝手にくる。
今回は兄弟の話を書こうとしたのだが、紙幅が足りなくなってきた(このシリーズ「朗読会へ向けての作り手思索公開」は3分間スピーチ、原稿用紙3枚を目安としている)。親世代からの話が絡み合っていて、そして私は捨てられないのだ。
今日、文化の日は両親の結婚記念日で弟の54回目の誕生日。弟は最近大病を患ったが、よくぞ生き長らえてくれた。そういう命の“オン”と繋がりがあって、今の私への螺旋が続いている。何も捨てられない。今日のところは前編として筆をおこう。弟よ、誕生日おめでとう。姉はお前が生きていてくれて嬉しく思っている。ホントだよ。