母について
2021年は本当にいろんなことがあった。今年はまだ7割程度か進んでいないけれど、「あった」と過去や完了の形にしてしまっても差し支えないくらいには、それらは僕の中に衝撃を、かつて無いほどの現実を与えていった。前に書いた父についてのこともそうだけれど、2021年は母についても事が起こった。事件と呼ぶには少し個人的に過ぎて、厄災と呼ぶにはやや大袈裟に思われるようなことだった。
前の文章に書いた通り、ガンによる余命宣告を受けた父は2021年の2月に亡くなった。申告の降りた20年の夏から数えて、半年余りが過ぎようとしていた頃に亡くなった。よく頑張った、そう言われるケースだと思う。そして僕はその死に目に際することができず、亡くなる数日前に「お母さんを頼むぞ」と、最後の言葉を受けた。遺言といったものなのかもしれないと、今では思っている。
母に異変が起こったのはそれから1ヶ月半ほどが経とうとしていた頃だった。センシティブなことに、ちょうど父の四十九日を終えた後のことだった。母の身に起こったことは誇張無しに、僕の生活を大きく変えた。それからの僕の暮らしや時間は、本当に重たいものに感じられた。この文章を書いている今でも、起こったこと、事実の重みが僕という存在を内側から圧迫している。脳裏にもひしめき、どこかにある心を占領してやまないのだ。もちろん、本当に辛く悲しいのは、母本人だと思う。父にとっても本意ではなかったと思う。自分に沿って生きて来た人が自分の後を追うようなことになってしまったのは。
僕はそのとき帰省していた。父の死後の車の廃車手続きや(母は運転免許を持っていない。僕は持っているが、実家の車は僕が生まれた頃に購入されたものであり、運転席側の窓が開かなければエアコンも機能しない。車体自体にも多くの擦り傷やへこみ傷があった。父の亡くなった後にその車が目に入ると、多分に父のことを思い出した。車も父も、その身をやつして誰かのためにこの世の時間を過ごした)彼の私物の整理、保険や役所手続きをするのに実家に帰っていたのだ。そういう時に、母は倒れた。
正確にいえば僕が発見した時の母は、朝になってもいつまでも寝ている人だった。前日の晩に、僕たちは明日の予定を話し合った。2人で飲む酒は久しぶりだった。酒を飲みながら「明日はあなたの携帯をスマホに変えますよ。もうガラケーはじきに使えなくなるのです。」、「明日は市役所に行き、新しい健康保険の話を聞きに行かなきゃならないね。」などと話していた。僕は昔から、家族と酒を飲むのが嫌だった。物心ついてからというもの、泥酔した父母が互いにいがみ合い、そこでしか聞かないような言葉をたくさん言っていたのを知っているからだった。普段は物静かで落ち着いた父が母を殴り蹴り、僕に人への丁寧さを説いた母が父の存在や行動を否定するような言葉を選んだ、ということが記憶として残っていたからだった。それでも僕は同時に知っていた。両親は僕が成人した後に、僕と共にお酒を飲むことを望んでいた。人は分からない生き物だと、本当に幼い頃から思っている。
そのような翌朝、僕は9時ごろに起きた。本当は8時半に起きるつもりだったことは今でも覚えている。寝坊だった。なんにせよ、母のことであるから先に起きているだろうと思っていた。しかし母は、僕が居間に行った際、まだ隣の寝室で大きな寝息をたてていた。父が亡くなってからお酒をやめたと聞いていたので、久しぶりの酒が身体に障ったのだろうと、僕はそのとき思っていた。結局母は、その後1時間経っても起きなかった。平生は早起きが日課の母に、流石に不審に思った僕が寝室を除き、吐瀉物や血でまみれた布団を確認したときも、そして僕が身体を揺すって声をかけたときも、母は寝ていた。そのように感じられた。救急車に電話して、救急隊が到着するまでの間ずっと、酒など飲まなければ良かっと思っていた。
救急隊と共に県病院に向かう道中、僕は同乗していた隊員に「母は助かるのでしょうか」と尋ねた。「おそらく脳内出血によるものであるから、搬送の段階での診断はできません。予断を許さない事態ではあると思います。」、隊員の返事はそのようなものであったと思う。銀の細いフレームの似合う細身の隊員であった。感染症対策の観点から、全身をビニールに包んだ男性であった。僕は、まだコンタクトもつけず寝癖もなおさず、寝起きのままの格好だった。眼鏡のレンズが水の痕に汚れていくのを分かっていた。
その日は、2021年4月8日はとても慌ただしかった。病院に到着してからも、そこで5時間余りを過ごしたのだが、めまぐるしく様々なことが去来していった。母は集中治療室に運び込まれた。僕は多くの書類にサインした。脳の手術のため後遺症などが発生する場合や、これから使用する薬剤によりアレルギー反応を起こすことがある、など多くの記載に目を通した。寝起きのままのみすぼらしい自分を恥じつつの作業であった。同時に親族に電話をかけた。兄、従兄弟、叔母、共に一発で電話に出ることはなく、一番初めに連絡の取れた従兄弟が病院に来たのは、昼過ぎのことだった。「お前はなんてやつなんだ」、そういって彼は僕に抱擁を求めた。兄が到着してからの僕たちは、病院の外の河原で煙草を吸っていた。疲れたな、という言葉が河川敷に流れた。僕は二十四、従兄弟と兄は三十六と三十八だった。
事実をまとめるとこうなる。母は僕と酒を飲んだおよそ数時間後の、寝ている最中に脳内出血を起こした。医師から聞いた名前によると、右被殻出血というもので、意識を取り戻すかどうかは分からず、仮に取り戻したとしても右脳の逆に位置する左半身に麻痺が残る、ということだった。幸い人の言語中枢は利き手と逆にあたる脳にあることが多いらしく、右利きの母にとって認知機能への影響は少ないと思われた。一人、コロナの影響によって最低限の人数しか立ち入ることのできない病院で、説明を聞いたことを覚えている。無力感が強かったことも覚えている。この世は不条理だと、今も思っている。その後、母は数日間をICUで過ごした末に意識を取り戻し、県病院から県外のリハビリ病院を経て、現在は市内の介護老人保健施設に入所している。柔らかい癖毛を手術のために剃毛された母は後の面会で僕に会った際、何も話すことができなかった。うわごとのようにずっと、小さく何かをボソボソと喋っていた。僕は泣いた。するとその時、母も涙を流した。こういう人なんだと思った。現在の母は左半身を認識することができず、食事や排泄を含めた全介助で生活している。僕が訪れると、施設の人に車椅子を引かれて会いにくる。涙を流すだけで、何も語らない。
母は僕が自分の人生で知る限り、トップクラスにたいへんな苦労人だった。生家では近所で評判の良い妹と比べて育てられ、想いを決めた恋人は実の母の手により縁を切られ、一度の離婚を経て僕の父と暮らしていた。その父からも、結婚してから借金の存在を聞かされ、金銭管理のできない父のために私財全て(女性にとって服や宝石類は非常に貴重だった。それが昭和生まれの現代とは異なる価値観で生きている女性なのであれば尚更だった。)を売り払われ、泥酔した父に暴力を振るわれ屋外に放り出される人だった。しかし母は、不平不満こそ酔ったときには口にするものの、朝刊夕刊の配達の傍ら家事育児をこなし、僕には人に接するにおいての丁寧さを教えた。僕の敬語やマナーは全て母から教わったものだった。大学に入るまでの服や靴、そもそも大学に入るための参考書などの勉強道具は全て、母に買ってもらったものだった。外食でも僕にはステーキを勧めるくせに自分はサラダしか食べないような人であったし、ブランド物はおろか化粧品さえまともに買わないような人であった。実家に帰るたびに、幼い頃によく食べ過ぎたせいか今となっては実はあまり得意ではないオムライスを作り、「お前は普段は何を食べとるんや」と言う人だった。父の座る座椅子の、こたつを挟んで向かいの座布団に座り、そこに肘をついてテレビを眺めているだけの人だった。後年はそこで、僕の薦めた本を読んでいた。京都の街並みにえらく感動し、学内で行われた能だか狂言だか、京舞だかに、「生まれて初めて観た」と心の底から感動する人だった。
お前の立てた家に住みたい、お前の買った車に乗りたい、そしてそれで旅行に行きたい、と言う人だった。
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