ほのかなり君がふるさとの白

好きになった人のことはなんでも知りたくなるのが、人の性というものである。どんな服を着て、どんな休みを過ごし、どんなものを食べて育ち、どんな音楽を聴き、どんな本を読み、どんな人に囲まれて過ごし、どんな人に恋をしてきたのか。ただ気の合う人とか、一緒に過ごして楽しい人というだけでも知りたくなることがないではないが、やはり好きな人のことというのは特別感があるし、あの人の知らなかった一面を知る瞬間にしか得られない感慨がある。知りたくないことを知ってしまうこともあるが、良くも悪くも平静ではいられない瞬間こそ恋の一ページだろう。

好きな人を知る上で特に重要なのが、好きな人のふるさとのことだ。あの人が幼少期を、青春を過ごした土地のこと。笑うときも泣くときも、つねに生活とともにあった、母なる山、母なる川、母なる海。いつもの駅、学校、通学路、コンビニ。あの人が少年・少女として、どんな環境でどんな生き方をしていたのか。ふるさとを知ることで、あの人の精神性というか、素朴な心の芯に、一歩か二歩くらいは、近づけるような気がする。ただの友達というだけでは、ふるさとに行ってみたい、心の芯に少しでも近づきたい、とまでは思わない。

歌人の米川千嘉子が詠んだ、こんな短歌と出会った。

氷河期より四国一花(しこくいちげ)は残るといふほのかなり君がふるさとの白

米川千嘉子

この歌について、俵万智は自著でこんな歌評を入れている。

掲出歌では、恋人のふるさとへの思いが、花に託されている。四国一花は、愛媛県の代表的な高山植物で、夏になると、二センチほどの可憐な花をたくさんつけるそうだ。近似種の白山一花を私は見たことがあるが、その白というのは、触れると溶けてしまいそうな、あやうい印象だった。作者はそれを「ほのかなり」と捉えた。やわらかな光を思わせる、的確で美しい表現だ。

俵万智『あなたと読む恋の歌 百首』(朝日新聞社)978-4-02-257163-2 pp.22-23

ほのかなり。四句の途中で切れるような印象をも受ける五モーラに、作者の感慨が託されている。触れると溶けてしまいそうなほのかな白さは、「君がふるさと」を象徴するイメージであり、それはきっと、作者からみた「君」のイメージでもあるのだろう。作者は四国一花の可憐さを、恋人のふるさと、ひいては恋人そのものと重ね合わせたのだと思う。

同じ本で俵万智はこうも書いている。

私の場合、相手の少年時代のことやふるさとの話を聞きたくなったら、あ、恋かなと思う。

私も好きな人のふるさとのことを調べたり、実際に旅行中に立ち寄ってみたりしたことが何度かある。実家や人の住む家に押しかけるようなことはしないが、たとえばその地域のローカルチェーン店に寄ってみたり、イオンモールがあれば入ってみたり、地域に特有の私鉄やバスがあったら乗ってみたり。あの人が過ごしたのと少しでも近い空間で、近い空気を吸いたいと願うこと。私にとっても、誰かのふるさとに対する強い興味は、自分があたらしい人を好きになったんだと自覚する、自覚せざるをえなくなる、決定的なきっかけなのだ。

近頃、ちょっと興味を持っているまちがある。何度か訪れたことがあり、昔から好きなまちだったのだが、ここ最近、より広く、より深く、まちの姿を見てみたいという気分になった。よく調べてみると、そのまちには特有の花が3種類ほどあるという。白い花がふたつと、黄色い花がひとつ。小さくて可憐な花弁を画面で眺めていたら、実際にその姿を自分の目で確かめてみたくなった。ほのかだと思うか、か弱いと思うか。写真で見るより、実際にそのまちに身を置いて、自分の目、あの人というフィルターを通して見てみたい。あの白さ、黄色さを、いつか、いやこんど、しかと目に焼き付けてこようと思う。

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