チー
それは、小学3年の冬だったと思う。母子家庭だった我が家に、一匹の犬が加わった。マルチーズのメス。関東近郊のブリーダーから、ペットショップを介さず直接我が家にやってきた。
初めてブリーダーのお宅を訪問したとき、たくさんいたマルチーズたちのなかで真っ先に私たちをお出迎えしてくれたのが彼女だった。尻尾を全力で振り回して、初対面の私たちに全速力で駆け寄ってくる白い犬。母は即決で、この子だ、と思ったらしいし、私もそれに異論はなかった。
このブリーダーは、マルチーズの美しさを競うコンテストの常連らしく、血統書まであった。そんな優秀な血筋の子たちのなかで彼女は、耳が茶色がかっている、受け口でいつも下の歯が出っぱなしなどの理由で、およそコンテストには出せないとのことだった。ペット用としても生後3か月売れ残っており、扱いに困っているという。関係なかった。優秀な血筋の欠陥品とされた彼女は、母の即決により引取先が決まり、私の微妙なセンスにより「チーコ」と名付けられ、半額値引きで我が家に迎えられたのである。
チーコちゃん、通称チーは人懐こく寂しがりやだったが、我が家にやってきてからは留守番が多かった。まもなくやってきた3月11日も、物が散乱して停電した余震の続く部屋で深夜まで一匹だった。人間が出かけるといつも寂しそうに遠吠えしたのち玄関におすわりして帰りを待ち、人間が帰ってくるといつも初めてのときと同じように尻尾を振りながら駆け寄ってきてくれた。留守番がよほどストレスだったのか分からないが、散歩に連れ出すと周囲には目もくれず一直線に走りまくり、家族や親戚の呼吸を荒くした。散歩、という言葉が聞こえるとチーがはしゃぎだすので、「散歩」は家庭内の禁句となった。とにかく活発ではあったが、食だけは細くてご飯を残すことが多かった。それと、病院に向かうときだけはいつも全身を震わせて怖がった。
7歳を迎えるかどうかくらいの時期だったと思う。犬は7歳以上で高齢犬とされるのだが、ちょうどその瀬戸際の頃、チーは大きな病気をした。血小板減少症。自分の血小板が免疫の攻撃対象になって検出できないほど数を減らしてしまい、血が止まらなくなる。人間にもある病気だ。全身が内出血を起こして青あざのようになった。すぐに入院となり、獣医には、五分五分ですね、消化管内で出血して血便が出たらもうどうしようもありませんと言われた。ステロイドは身体に合わなかったが、奇跡的に人間用の止血剤と免疫抑制剤が効き、チーは回復を果たした。我が家に帰ってきたチーは、免疫抑制剤を毎日服用すること、狂犬病を含む一切の予防接種を金輪際受けられないこと以外はこれまで通りの日々を再び送れるようになった。死の淵から生還したチーは、再び私たち家族の日常に溶け込んで生活することとなった。
チーは日々人間と一緒に寝て、人間と一緒に起きることを繰り返しながら、少しずつ少しずつ年老いていった。散歩に行っても以前のように全速力では走らなくなったし、瞳孔はうっすらと白濁してきた。それでも、人懐っこくて甘えたがりやな性格に変わりはなく、事あるごとに抱っこをおねだりしてきた。気づけば私は運転免許を取りお酒を飲むようになっていたが、チーの部屋の位置は小学生の頃からずっと変わっていなかった。いつものように留守番をし、いつものように帰宅した私を出迎え、いつものように布団で一緒に寝た。やがて免疫抑制剤の服用も必要なくなり、チーと私たちには落ち着いた日々が流れていた。
12歳のある秋の日だった。夕方からチーは、ぐず、ぐず、とむせたような音を立てて息をしていた。水を飲んでむせることは時々あったので、当初はそれほど深刻に捉えていなかった。しかし、ずっと続く苦しそうなぐず、ぐず、にちょっと心配になったので、舌の色を確認するため少々強引に口を開けさせてみた。何が起こっているのかを理解するのに、時間はかからなかったような気がする。私にとって多感な12年を一緒に過ごしたチーは、その日の夜遅く、箱に収められた。その日の晩は家族そろって一緒に明かした。翌々日のお昼前には壺に収められ、片手で持てるサイズになってしまったチー。母は、チー、チー、チーはいないんだよ、と何かに取り憑かれたように独り言を繰り返していたし、私はずっと黙っていた。
翌年の夏、役所から自宅に狂犬病予防接種を受けさせなさいという通知のはがきが届いた。死亡したときには届出が必要です、とも書かれている。どうやら届出をしていなかったようだ。役所では、チーはまだ生きていることになっているらしい。はがきは、小さい壺の前にそっと置いた。
こうしていま文章を打っている私の目の前に、小さな壺はある。Rest in peace. の文字。安らかすぎて存在ごと忘れてしまいそうだ。どこまでも快活だったチーの面影はそこにはないが、いつも寂しくなると吠えだす子だったことを思えば、ようやく留守番の寂しさから解放されているのだろうと思う。これまで寂しい思いをたくさんさせてしまったけれど、これからはずっと一緒にいようね。欠陥品扱いされたとしても、チーはチー以外にはいないのだから。そんなことを考えながら、子の刻、チーコちゃんの思い出語りの筆を置こうと思う。