近衛上奏文とポリティカル・コンパス。
日本がいよいよ敗色濃厚となってきた昭和20年2月、近衛文麿が昭和天皇に宛てた上奏文というものがありまして、その中にこんなことが書かれています。
敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。 国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。
簡単に言うと、「戦争に負けるのはしゃーないけど、その後に共産革命が起こるのが怖い」という意味のことを言ってます。さらに、間を端折って上奏文の真ん中辺りまで行くと、こう書かれている。
これら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、 意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵しおり、無智単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと存侯。
この文章を乱暴にまとめると「右翼とは、左翼の類似品です」というようなことを言っている。
さて、話は変わりますが、政治の話題が好きな人ならポリティカル・コンパスというものを知っていると思います。ポリコレ(ポリティカル・コレクト)とは違いますよ。要は、自分の政治スタンスがどのような座標軸にあるか、ということを示す、下図のような表のことです。
ただ、私が思うに、この2つの軸で定まる図は、正確ではないんじゃないかと考えてます。そこで、私が考える正しいポリティカル・コンパスを作ってみました。
はい、三角形です。四角じゃありません。なぜ三角なのか。横幅が狭くなればなるほど「小さな政府を志向している」ということになります。政府の権限が小さくなればなるほど、政府の統制は弱まり、個人は政府に縛られなくなる反面、弱肉強食社会、自己責任社会となります。
逆に、リベラリズムはどうなのかというと、現代社会においてリベラリズムと呼ばれるものは、事実上ソーシャル・リベラリズム(社会自由主義)であり、要するに個人が他の個人の自由を害することがないように政府が積極的に介入していくというイデオロギーです。つまり、裏を返すと「政府の権限を強化する」方向ですので、ソーシャル・リベラリズムはむしろ全体主義に近いのです。
全体主義というとナチスやソ連を想起させるため、あまりイメージは良くありませんが、全体主義そのものが絶対悪というわけではなく、例えば現在のシンガポールは「明るい北朝鮮」と揶揄されるくらいの全体主義国家です。
また、政府の権限を極端に弱めることは、個人が個人の自由を踏みにじっても政府はそれを救済する力を持たないことになり、結果として多くの人民の自由が奪われます(その反省から生まれたのが現在のリベラリズムです)。
ただし、現在の左翼リベラリズムのように、なんでもかんでも政府が救済しろ、政府が補償しろ、政府がリーダーシップを取れ・・・みたいな主張をしていくと、どんどん全体主義傾向が強化されていき、共産主義と見分けがつかなくなってしまいます。
私は、今現在それが起こりつつあるという懸念を持っています。
では、左翼と正反対にあるはずの右翼とは何か?一般には国粋主義とか、国家社会主義とか、あるいはファシズム等々、さまざまな呼び名があると思いますが、これは、冒頭の近衛上奏文の一節に書かれたように「国体の衣を着けたる共産主義」なのではないでしょうか。
実際、右翼と左翼は目的と手段が入れ替わっているだけで、最終的にやることは結局同じです。それは現在の中国や北朝鮮を見れば一目瞭然でしょう。あの2国が、共産主義なのか、それともファシズムなのか、などという話は、議論しても仕方のない事です。かつてのソ連だって、ナチスドイツと変わらないくらい独裁的で、強権的で、反対勢力を弾圧してたし、一方でナチスドイツだって国民福祉には実はけっこう力を入れていたのです。てか、戦時下の日本だって配給制度があったでしょ?配給制度なんて、まんま社会主義の制度ですよ。
まあ、あえて右翼と左翼を区別するなら「国のために個人の自由を制限するのが右翼、個人の自由を守るために個人の自由を制限するのが左翼」と言ったところでしょうか。
現在、安倍政権が歴史的な長寿政権となっていますが、その秘訣は、新自由主義クラスタから国粋主義クラスタまでをも幅広く抑えているので、反対勢力がほぼほぼ共産主義クラスタのみになっていることが大きいと思います。こういうと「いやまて、私は共産主義者ではない」と反発する人も大勢いるとは思いますが、あくまでも「新自由主義や国粋主義よりは共産主義に近い」という程度の意味です。
新自由主義、国粋主義、共産主義、どれも思想そのものが悪いということはありません。というより、どの思想も欠陥を抱えているので、バランスよく使う必要があるのです。国粋主義や共産主義は悪いイメージが付きまとっているため、世間的には罵倒語のような存在になっていますが、これらの思想を全否定することは誤りですし、もちろん全肯定するのも誤りです。そして最近では新自由主義とかグローバリズムという言葉も罵倒語に近い言葉になりつつありますが、やはりこれも、そういうイデオロギーをどう名づけるかは別として、思想自体を全否定するのは誤りです。もちろん全肯定も誤り。要は正しいイデオロギーなんてものはこの世に存在しないのだから、バランスよく使えということです。
では、どういうバランスが良いのかと言うと、それは国民の民度の高さにもよるのではないかと思います。例えば、偏差値の高い高校は校則の緩い自由な気風の学校が多いようですし、偏差値の低い荒れた高校は校則を厳しくして生徒の自由を制限する傾向にあると思います。これはあくまで傾向の話ですので、例外も沢山あるかと思いますが、国民の統制も同じで、基本的には国民の民度が高ければ自由度を高め、国民の民度が低ければ統制を強めるのが良いのではないかと言う気がします。
ところで、これは余談になりますが、ここ数年、LGBTやフェミニズム、ヴィーガン、動物愛護などのクラスタが急速に全体主義化しているように見えます。しかし、こうした社会運動が共産主義勢力によって汚染されたというよりは、もともとこうした社会運動そのものが、全体主義化しやすい性質を帯びていると見るべきだと思います。なぜなら「あなたの意見は尊重するけど私はこうだと思う」じゃ、あまりに弱すぎるでしょ(笑)。当然「〇〇はこうであるべきだ!△△はこうでなければならない!」という強い口調になります。つまり、1つのイデオロギーを絶対善として、それと対立する思想を絶対悪とみなす傾向が強まるわけです。しかも、そういうイデオロギーを他者にも押し付けようとする(綺麗な言葉で言えば啓蒙)のが社会運動ですから、統制的になるのも必然です。これも、あくまで「そういう性質を持っている」というだけであって、社会運動そのものを否定しているのではないことに留意してください。
さて、もう1つ余談を。日本、韓国、台湾でしか通用しない話ですけど、右翼と左翼を分類する、もう1つの方法があります。
自分の国を中心に見て、それよりも右側の国のほうが好きなら右翼、左側の国のほうが好きなら左翼(笑)