見出し画像

赤子が降る国(1)

 その日のパチンコはバカ勝ちだった。大当たりに次ぐ大当たりで、うはうはもうはうはだった。世界は素敵で、素晴らしく、ハッピーハッピーハッピー♪だった。
 結局その日、熊野は時間も我も忘れ、実に六時間もの間、ぶっ通しでパチンコを打っていた。こんなに勝ったのは生まれて初めてだった。山積みになったパチンコ玉ケースを見ながら、「ついてる日というのはあるんだなあ……」と彼は思った。夕方、膨らんだ財布をポケットにパチンコ店を出た熊野の顔はもうホクホクだった。だがそんな彼の顔は空を見上げるなり曇った。時間は遅くないのに、空はもう真っ暗だった。よくないサインだった。実によくなかった。今にも赤子雨が降ってきそうだった。
 あーっ……。熊野は内心毒づいた。マジかよー。もーーーっ!!!
 店の入口脇でしかめ面を空に向けて、彼は考えた。中に戻って、もう少し打ちながら、赤子雨が過ぎるのを待つかなあ……。悪くない考えだった。普通に考えれば多分、そうしたほうがよかった。だがこの日、熊野はバカ勝ちしたばかりだった。何の根拠もない全能感が彼の体中を駆け巡っていた。まあイケるだろ。うん。イケるイケる。彼はそう踏んだ。そして勢いよく、曇天の下に駆けだした。
 ところで、調子に乗りまくる熊野の頭が、都合よく無視している事実があった。彼はとても太っていた。とても、を超えて、とんでもなく大きかった。彼は100kg超えの大巨漢だった。もちろん体力など皆無だった。
 走り出してわずか20mほどで熊野は息が切れた。走るのを止め、ぜえぜえ息をしながら歩いた。やっぱ無理。全然無理だわこれ。引き返すことにした。
 そして彼が振り返ったときだった。突然、ボールが握り潰されるような細く鋭い音が、頭上から聞こえたのは。その直後だった。何かが空から降ってきた。
「それ」は、熊野のほとんど目と鼻の先を通過したあと、彼のすぐ足下の地面に落ちた。そして、ぱんぱんに水が詰まった水風船のように、勢いよくそこで弾けた。肉片、血液、体液が周囲に飛び散り、熊野の靴やズボンの裾にかかった。
 視線を落とすと、足元はすっかり血の海になっていた。ピンクや白の細かい欠片が、そこら中にこべりついていた。何かがコロコロ転がってきて、熊野の靴に当たった。よく見ると、それは小さな眼球だった。ある意味目が合った。
 絶望。熊野は再び空を見上げた。
 黒々とした空の上に、どこからか現れたおびただしい数の赤子たちが、びっしり散らばっていた。まるで空一面にカビが生えたかのようだった。風が強く吹いた。すると、無数の泣き声や笑い声が、風に乗って空の奥から熊野の耳まで届いた。
 少しの間、彼は光景にただ目を奪われていた。だがその間にも、頭上に広がる赤子たちの点は、それぞれどんどん大きくなっていった。やべっ!!! 彼は我に返った。絶対こんなことしてる場合じゃねえ! 巨体を翻し、彼は走り出した。(なぜか)パチンコ店には戻らず、薄暗い道の方へ。やばい! 通りを走りながら、彼は胸の内で声もなく叫び続けた。やばい! やばい!! やばすぎる!!!

赤子が降る国

 彼は走った。むちむちの足を文字通り死ぬ気で動かした。暗い風が彼を追い立てた。すぐにまた息ができないほど苦しくなった。それでも今度は足を止めるわけにいかなかった。その時、後ろからまた、柔らかいものが地上で破裂する、ぶちゃりという音が聞こえた。同じ音がさらに二つ、三つと続いた。それでも振り返ることはできなかった。彼は走り続けた。後ろを見る余裕なんてなかった。音と音の隙間は、あっという間に埋め尽くされていった。やばいやばいやばいやばい!!!
 地獄をひた走る。たぷたぷと揺れる腹がもげ落ちそうなほど痛かった。だが立ち止まったら死ぬのだ。赤子たちの叫換が周囲を渦巻き、足元が震動していた。そして突然、一体の赤子が、彼のすぐ右前に落下してきた。「うおおおい!」 思わず悲鳴を上げながら、熊野は左に飛び退いた。続いてさらに前方に、左右に、次々赤子たちが降ってきた。「あああああ……!」 訳の分からない大声を発しながら彼は走り続けた。
 降り注ぐ赤子たち。血しぶき。散乱する肉片や小さな骨。その中を彼はひたすら走った。ふらつき、両手を頭の上にかざしながら。奇跡のように、どしゃ降りの赤子たちは彼には当たらなかった。彼は前に進んでいった。しかし体力の限界はとうに超えていた。顎は上がり、両足も熱く溶けたようだった。もう本当に息ができなかった。死ぬんだ。ここで、今にも。本気でそう思った。その時だった。靄がかかったような視界の端に、100%見覚えのある、黄緑と白の看板が映り込んだ。
 息も絶え絶え駆け寄ると、自動ドアが開いた。そして、「テレ、テレ、テレー、テレレレレー♪」という、いつものファミマの入店音が彼を迎え入れた。
 コンビニの店内は涼しく、明るかった。カラフルな色や音に満ちていた。
 勢いよく店に飛び込んだ後、熊野はそのままふらふら店内を進み、それから入口近くでどさりと倒れた。もう動けなかった。床の上にうつ伏せになり、しばらく激しく咳き込んでいた。ファミマの床は清潔で冷たかった。
 次第に呼吸は落ち着いていった。そのうちに実感が湧いてきた。助かったんだ。身体のあちこちが痛かった。手も足も震えていた。でも生きていた。気がつくと、彼は泣き出していた。大声を上げながら。自分でもよく分からない理由で、涙が全然止まらなかった。泣くと咳もまたぶり返してきた。そうやってうずくまったまま、目鼻口から色々な液体を垂れ流し、彼は床の上でただうぐうぐと泣き続けていた。
「あの……、大丈夫、ですか」突然、声をかけられた。
 床に倒れ伏したまま、彼はぐちゃぐちゃの顔を上げた。そして目を疑った。
 逆光の中、一人の女性がそこに立ち、彼を見下ろしていた。コンビニの女性店員の制服を着ていた。だが彼女は他でもなく、彼が五年前からずっと激推ししている、アイドルグループのメンバー、みぽりんその人だった(そう見えた)。
「みぽりん! ぐはぁっ!」恥ずかしいほどむせ返りながら、熊野は大声で彼女の名前を呼んだ。「えっ!? どうして? なんで? どうしてみぽりんがこんなところに」
「ええっ……?」マスクをした女性店員の顔は、本気で気味悪そうに歪んだ。「分かりません。えっ、あの、大丈夫ですか」
 涙を拭いて、よく見た。彼女はみぽりんではなかった。似ているだけだった。というか日本人ですらないようだった。胸の名札に「チャン」と書かれていた。出稼ぎの外国人労働者のようだった。でも本当によく似ていた。マスクで顔の半分が隠れているとはいえ、目も鼻筋もみぽりんそっくりだった。「あ、すみません……」 熊野はゆっくり立ち上がった。「いやっ、あの、大丈夫です、全然……」
「そうですか、はい」心なしかその声は、初めよりも冷たく聞こえた。「そうですね、大丈夫ですか。じゃ。大丈夫、ね」
 そう言うと、彼女はさっさとレジの中に戻っていった。

赤子が降る国

 一人その場に取り残された熊野、鼻をすすると、どろどろした臭いが口の奥に詰まり、おえっとなった。全身がべとべと気持ち悪く、確かめると、靴も服も肌まで血塗れだった。そしてこんな状態にもかかわらず、気が緩んだのか空腹を感じだした。
 近くにあったカゴを手に取った。それからゆっくり店内を回った。気づいていなかったが、コンビニに彼以外の客はいなかった(良かった……)。痛む足を引きずりながら、タオルや着替え、食べ物などを、彼はカゴの中にぽんぽん放り込んでいった。
 レジにカゴを置くと、先程のみぽりん似の女性店員が来た。どうやら店員も今、彼女しかいないようだった。天気のせいで、他のバイトが来られていないのだろうか。どちらにせよ今店にいるのは熊野と彼女の二人だけだった。
 それにしても。熊野は再び思った。本当にこの人、みぽりんそっくりだ……。改めて見てもそう感じた。こんなに似ている人がこの世にいるんだなあ、と感動してしまうぐらいだった。しげしげと顔を見てしまい、今度こそ彼女に睨まれた。
「三五二〇円ですよ」
「あっ、PayPayで。すみません」
 トイレで血まみれのシャツやズボンを脱ぎ、新しい服に着替えた。イートインスペースの席にどさりと腰掛けたあと、彼はようやくそこで大きく息をついた。
 窓に面した席からは外の様子がよく見えた。赤子雨は勢いを増し、町に降り募っていた。コンビニの前の道に、次々と赤ちゃんが落ちてきていて、ぐしゃぐしゃと路上で潰れ、弾けていた。大量の血が、道路を建物の壁を電柱の上を流れていた。肉片があちこちに小さく積もり、町はすっかり濃淡ある赤に染まっていた。
 さっき買ったサンドイッチを頬張りながら、熊野はぼんやり外を眺めた。もう長いこと東京に住んでいるが、こんな風に赤子雨が降るのをしっかり見たことは、実は今までなかった。基本的に家にこもりきりの生活をしていたし、あえて見てみようと思ったこともなかったからだ。赤子雨。あまりにも悲惨なその光景。だが今改めて、実際に光景を目の前にしたとき、熊野が思ったのは単に、「ネットで見たなあ……」ということだけだった。YouTubeやXに流れてくる映像でなら(それらはたいていモザイクがかかってはいたが)、彼も赤子雨が街に降る様子を見たことがあった。何度も。それこそ数え切れないほど。だからこうして、実際にその光景を目の当たりにしても、ただまたPCの画面で映像を見ているような、そんな感覚になっただけだった。
 ネットでよく目にする映像といえば、赤子雨のビデオにもたくさんある。遠い国での戦争。行進するデモ隊。国会中継。隠しカメラが映した強盗の瞬間。川が氾濫した町。そういった映像を次々と適当に見ているとき、熊野はいつも、あるぼんやりとした感覚に襲われた。それは、それらの映像が、「それぞれ全く異なる現実を映している」という感覚だった。映像がそれぞれ分かれているように、そこに映し出されている現実もまた、互いに互いと関わり合うことなく、無数に並立して存在している……。ネットを見ていると、なぜか彼はいつもそんな気分になったのだった。もちろん、「現実」は実際には地続きにひとつであり、そんなこと頭では分かっている。でも感覚は違うのだ。ネット脳? ひきこもり的世界観? そう言われたらそうなのかも……。
 だがとにかくその時、窓の外の光景を見ながら、彼が抱いたのもまた、それに近い感覚だったのだ。コンビニの窓ガラスを挟み、悲惨な外の光景と、自分のいるコンビニ店内とでは、全く違う現実であり関係を持たない。そんな感じ。すぐ目の前で起こっている全てのことに現実感を覚えなかった。遠い他人事のように思えてしまった。それは奇妙な感覚といえば、奇妙な感覚だった。ついさっき、自分があの雨の中を走っていたということすら、今となっては信じがたかった。遠い昔に起こったことというか、まるで夢の中の出来事か何かのように思えた。だって、そんな訳……。普通に考えて無理じゃん、そんなの。周囲に赤ちゃんが次々落ちてくる恐怖を彼は覚えていたし、全身の熱さも身体が記憶していた。それでもなお。記憶の中で必死に走る自分自身もまた、今席に尻を乗せた自分と同じ自分ではない、全くの別人であるかのように思えてしまう……。どうしてだろう。よく分からない。でもそんな風に感じられてならない……。
 そうやってぼんやりしていたら、一体の赤子が風に乗って飛んできて、彼のすぐ近くの窓に衝突した。どびゃりと放射状にガラスの上に赤が広がる。大きな音に驚いて、彼は物思いから覚めた。同時に、持っていたおにぎりをテーブルの上に落としてしまった。ああ! もったいない、もったいない! テーブルの上に落ちた米粒を、彼はひとかたまりずつ拾い上げると、口の中に丁寧に入れていった。
 食べ物をすべてたいらげたあと、彼は大きく椅子の上で伸びをした。ゲップが出た。お腹がいっぱいで気持ちよかった。午後、パチンコ店を出たときの幸福感が、再び彼の内側に戻ってきた。やっぱり今日はついてると思った。満腹だし、コンビニの店内は涼しいし、自分の他に客もいない。新しい服はサイズがちょうどいいし、ズボンのポケットにはパチンコで勝った金が入っている。現金! その確かな重み。うへへっ。それに。彼は思い出した。偶然入ったコンビニで、みぽりん似の女性にも出会えた!
 レジの方を盗み見る。例の女性店員はレジの後ろ、退屈そうな顔で一人立っていた。視線に気づかれたのか、彼女と目が合った。慌てて彼は目を逸らした。危ない! でもやっぱりかわいいなあ……! 似てるよなあ……! 席の上で彼は声もなくぶつぶつ言い続けた。似てる、かわいいなあ……本当に似てるなあ……。
 外では風の音、空気をつんざく大量の泣き声、絶え間ない赤子雨の音がまだまだ続いている。いつ降りやむともしれぬまま。

赤子が降る国

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?