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赤子が降る国(2)

 ファミマ店員のチャンはずっと最悪の気分だった。本当の本当に最悪。嫌。
 理由ははっきりしていた。突然血まみれで店に飛び込んできたデブの客に、やたらチラチラ見られること……ではなく、もちろん赤子雨だ。チャンは赤子雨が苦手だった。苦手というより、無理だった。久しぶりに話す国の友達に、「日本で何がキツい?」と聞かれたら、迷いなくいつも「赤子雨」と答えていた。答えを聞いた相手からはたいてい、「ああ……」とか、同情のこもったリアクションが返ってきた。
 もっとも、日本に行くことが決まるはるか前、まだそんなことになると想像もしていなかった昔から、赤子雨について彼女は知ってはいた。いつどうやって知ったのかは覚えていない。何かで読んだのだっただろうか。それとも、大人が話しているのを聞いたのだっただろうか。分からなかった。でも初めて赤子雨を見たときのことなら、彼女はよく覚えていた。中学生のときのことだ。教室で友人数名と話していたら、「おい、これ見ろよ」と一人の男子がへらへら近づいてきたのだ。彼は手に持ったスマホをいきなり、友達の顔のすぐ前にかざした。友達は、心底うざそうな顔でスマホをかわしつつ、画面をちらっと見て、「うおぇぇ!」と怒りの唸り声を上げた。
「お前さあ、マジふざけんなって」
「へっへっへっ。見た? 見ただろ?」
「何? トゥイ、何見せられたの」他の友達が彼女に聞いた。
「赤子雨のビデオ、日本の」トゥイはうんざりした表情を浮かべていた。「マジでキモイ。死んでほしいんだけど、こいつ。どっか行けよ!」
「赤ちゃん雨のビデオなんか、見れるんだ」チャンは素直に思ったことを口にした。本当にそんなことすら、あの時の彼女は知らなかったのだ。「お、お前も見る?」と、男子がチャンの言葉にうきうき反応した。そして彼女が何も言わないうちに、今度は彼女のほうに、彼はスマホの画面を突きつけてきた。
 そして彼女はその景色を目にした。小さな画面の奥に、別世界。
 正直、その時チャンが見た映像は、そこまでグロテスクなものではなかった。モザイクが濃すぎて、何の映像かもよく分からないぐらいだった。形のない、滲んだ黒と赤がもやもや曖昧に動いているだけに見えた。だがとにかくそれが、チャンが人生で初めて見た赤子雨だった。映像は彼女をざわざわと落ち着かない気持ちにさせた。絶対に見るべきでないものを見ている、という感じがした。
「やめろってば」友達が彼を止めてくれた。ケタケタ笑いながら男子はどこかへ去って行った。「大丈夫?」と聞かれた。「うん」とチャンは頷いたが、嘘だった。吐きそうだった。胸が押しつぶされるように苦しかった。
「マジ無理だよね」友達がぽつりと、誰に聞かせるでもなく言った。「あんなの本当に見たら、私ならその場でショック死すると思う」

赤子が降る国

 実際にはしかし、ショック死はしなかった。それに近い状態にはなったけれど。教室での友達との会話から、瞬く間に四年、チャンは一人、日本で電車に揺られていた。生まれ育った国を離れてから早三週間。生活には慣れてきたものの、疲労はやっぱり溜まっていた。昼どきの電車はあまり混んでおらず、広々と空いた座席に深く腰かけたチャンは、席の上でうとうと微睡んでいた。
 突然、電車が急ブレーキをかけ、その揺れで彼女は目を覚ました。うわっ、おっとっと。程なく電車は完全に停止した。ゆっくり体を起こしたあと、周りに目をやった。他の乗客もみな一様に、「何事?」といった感じで眉をひそめていた。その時、車内にアナウンスが入った。とても早口だった。日本に来たばかりの彼女には、内容が全然分からなかった。だが他の乗客たちの表情の変化は分かった。極めて動物的な緊張感が、一瞬のうちに車内に走った。
 最悪。彼女は察した。あれだ。絶対そうに決まってる。
 そして音が聞こえてきた。電車の外、遠くのほうから確かに。それはひとつの巨大な叫び。自分たちはここにいるんだという、命が命そのものを振り絞る輪唱。彼女は慌てて手で耳を塞いだ。さらに目も閉じようとした。だが間に合わなかった。あるいは何か不思議な力が、彼女の目を閉じさせなかった。
 電車はあっという間に赤子雨に呑み込まれた。屋根の上に彼らが次々落ち、まるで何百万人もの人がそれぞれ拳を叩きつけているような音がした。車両全体が大きく揺れていた。窓の外に目をやると、数えきれないほどの赤ちゃんが地上に降り注いでいた。まさに悪夢のような光景だった。座席の上で彼女はただ、体を動かすことも考えることもできず、呆然とその景色を見た。落ちていく赤ちゃんたち、一人一人の細部まで、彼女にははっきり見えた。表情や手の形、お腹の丸み、髪の色。本当はそんなものが見えるはずはなかった。彼らは目にも止まらぬ速さで落下しているのだから。だが確かにその時、彼女には見えたのだ。キョトンとした目、柔らかい髪、ばたばたと空を切る足、うがうがとただ動くだけの唇……。それらのイメージが彼女の目の奥に、決して消えることのない形で焼き付いた。打ちつける音はますます大きくなり、今にも屋根が崩れ落ちてきそうだった。両耳を痛いほど彼女は握りしめた。痛みでやっと目を閉じることを思い出した。硬く硬く目を閉じ、そして……
 叫びながら、彼女はベッドの上で飛び起きた。

赤子が降る国

 悪夢。そう、それは悪夢だった。クラスで男子に映像を見せられて以来、チャンは悪夢を見るようになった。内容は毎回ほぼ同じ。夢の中で彼女はいつも、どことも知れない暗い場所を歩いていた。見渡す限り何もない、だだっ広い空間の中を。不安な気分になりつつ、彼女は歩き続ける。すると突然、何の前触れもなく、頭上から大量の赤ちゃんが降ってくる。そして彼らが一斉に地上に落ち、衝撃を確かに感じた次の瞬間、恐怖とともに現実に戻る……そんな夢だった。
 夢を見ることについて話したとき、友人や家族の反応は様々だった。心配する人、夢は夢だよと言ってくる人、繊細すぎるよ、と何故か怒り出す人。幸いだったのは、周囲の他の誰よりも、両親が彼女を案じてくれたことだった(夜中に何度も叫び声で起こされちゃたまらん、と思っただけかもしれないけど)。リビングのテレビでは決してニュースを見ないようにしてくれたり、リラックス作用があるというお茶をネットで取り寄せてくれたりした。結局、スマホを使っていれば赤子雨の映像は嫌でも時々目に入ったし、お茶は苦くもなく甘くもない変な味がするだけだったが、純粋に自分を気にかけてくれる人がすぐ近くにいることこそが、当時の彼女にはありがたかった。
 そんな両親が新しいアイディアを出してきたのは、ある日の夕飯の席でのことだった。「なんか、へとへとに疲れると、夢を見なくなるらしいじゃないか」父は世紀の発明を発表するかのような顔をしていた。「だから寝る前に、思い切り運動でもしたらどうだ。サッカーとか。どうだ? いっしょに。オレも運動したいし」
 彼女が走るのを始めたのは、父のその言葉がきっかけだった。新品のシューズのひもをしめると、「何もこの暑いときに……」という顔の家族を後に残し、彼女は家から駆け出した。実家の近くには田んぼが広がっていて、その間を道が伸びていた。長くどこまでも続いていそうなその道を彼女はゆっくりと走った。一歩一歩、足の裏に確かな硬さを感じながら。三十分ほど走ったあと、疲れ果てて足を止めた。肩で息をして歩いた。歩きながら彼女は思った。なんて気分がいいんだろうと。
 それから毎日、彼女は走るようになった。初めは「どうせすぐ……」という感じだった家族の顔は、間もなく「何が楽しくて……」という顔に変わり、「よく続くなあ」という顔を経たあと、「チャンが走りに行くってことはもう8時ごろか……」という顔に行き着いた。来る日も来る日も彼女は走った。タイムを計ったりはしなかったし、距離を決めたりもしなかった。続けているうちに多少体力はついたが、だからどうというわけではなかった。彼女はただ走るために走った。風が踊り、鳥や虫が歌う中を彼女は走った。夕日の光が一面に広がり、オレンジ色の鏡面となった景色の中を走った。世界は美しいと思える瞬間たち。ふと気がつくと、彼女は走りながら口元が緩んでいることがあった。そんな時、彼女は一際大きく息を吸った。暖かい匂いで体をいっぱいにしたあと、目を閉じた。そしてそのまま走り続ける。前へ、前へ。もっと速く。もっともっと速く。どんどん足の回転数を上げていく。すると不意に、優しい風が後ろから吹いてきて、体が浮かび上がったような気分になり、目を開くと……

赤子が降る国

 薄汚れた駅のホームの天井が、大きく前に広がっていた。
「あ」駅員の男が突然、彼女の顔を覗き込んできた。「起きました? 大丈夫ですか」
「あっ! 大丈夫!」思わず両腕で顔を隠しながら、彼女は慌てて答えた。顔が一気に熱くなるのを感じた。「大丈夫です。本当! 大丈夫、大丈夫……」
 ホームのベンチに彼女は寝かされていた。体を起こそうとすると、首や背中が痛んだ。起きたとき話してきた駅員が、片膝をついて、困ったような顔で彼女を見ていた。彼女と駅員以外、ホームに人の姿はなかった。電車も止まっていなかった。がらんどうの地下の構内には、生暖かい空気がゆっくり流れていた。
「すみません……」しっかり座り直しながら、彼女はひたすら駅員に頭を下げた。「すみません……。本当に……。今、大丈夫です。大丈夫」
「まぁ、よくあるから……」駅員は言った。「えっと……」言葉に迷っている様子。「病院? あの、ホスピタル? OK? 大丈夫ですか? 行かなくてもいい?」
「いいえ! いいえ! いらないです!」彼女は大きくかぶりを振った。
「そっか」駅員は頭の後ろをかいた。「じゃ、もうすぐ次の電車が……あー……ネクストトレイン、カム。もうすぐ。分かりますか?」
 今度は首をこれでもかというほど大きく縦に振った。
「じゃ、大丈夫ですね」そう言うと、突然体が軽くなりでもしたかのように、駅員はすっと立ち上がった。「それじゃ、まあ、お気をつけてお帰りください。失礼しました」テキパキとした足取りで、駅員はホームの奥に去っていった。彼女一人だけが残された。一人になると、疲れにどっと襲われ、彼女はベンチの上でへたり込んだ。頭がやけに重たかった。人影の全くない地下のホームは、密閉された巨大な箱の中のようだった。日本に来て以来、いちばん強い孤独感を彼女は覚えた。単に寂しいというのではなかった。あらゆるものから隔絶された感じだった。
 駅員の言葉通り、電車はすぐやってきた。重たい体を引きずって、彼女は電車に乗り込んだ。車内にも他の姿は全然なかった。彼女が座席に倒れ込むと、それを待っていたかのようにドアが閉まり、電車は動き出した。彼女は座席に深く体を沈めた。そして、静かに進んでいく電車の中、シート越しに不安定な震動を感じながら、目の前の真っ黒な窓ガラスにぼんやり目を向けていた。
 その時。電車がトンネルを抜け、地上に出た。彼女は息を呑んだ。外が明るくなり、ガラスに色がついた。すると、先ほどまで気がつかなかった様々なものが、ガラスに付着しているのが見えるようになった。多少擦ったところで消えることのない、こびりついたものたちが。乾いて、剥がれなくなったものたちが。 
 窓ガラスの表面全体に、赤茶色の血の跡が伸びて広がっていた。そして、その血の跡の上に、とても小さな手形や足形が無数についていた。

赤子が降る国

 現実。そう、全ては現実だった。彼女が日本に来たことも。電車で赤子雨にあったことも。その場で気を失ったことも。それはちょうど、いくら洗ってもこびりついて落ちない血の跡のように。全ては拭い去れない現実だった。
 日本に行くのを決めたのは、高校を卒業する一年ほど前だった。よく考えた末に決めたことだった。難しい決断じゃなかったといえば嘘になるだろう。外国で生活することに対する不安も間違いなくあったし、それに何より、三、四年前に幾度となくうなされた夢の中で感じた恐怖は、彼女の体にまだしっかり染み付いていた。それでもなお、彼女は行くことにした。少数のクラスメイトたちのように、大学に進学する余裕は彼女の家にはとてもなかった。しかし彼女が働いて稼ぎさえすれば、弟や妹にはそのチャンスがあった。それなら、理由はそれだけで十分だった。「お父さん」「お母さん」寝ぼけているときを狙って、彼女は両親にそれぞれ声をかけた。「私、卒業したら、日本で働くことにした」彼女の決意を聞き、彼らはただ一言「そっか」とだけ言った。返事もそれだけで十分だと思えた。気持ちは固まった。
 出立の日は快晴だった。底が抜けたように真っ青な空を、空港のロビーで彼女は見上げていた。見送りに来てくれた家族や友人たちが周囲でずっと忙しなくしていた。だがその時、彼らの声はどうしてか、彼女の耳にあまり入ってこなかった。大勢集まった知り合いが、一様に険しい顔をして、口をぱくぱくさせている光景は、(ちょっと悪いとは思うけれど)はっきり言って可笑しかった。少し緩んでいるであろう口元を、なんとなく周囲に見られたくなくて、彼女はずっと空を見ていた。
「チャン」ついに肩を掴まれ、揺すられた。「何してんのよ。一人でずっとぼうっとして。具合でも悪いんじゃないでしょうね」
 話しかけてきたのは、チャンにとっては従姉にあたる、スアンだった。スアンはチャンの周りで、誰よりも強くチャンの日本行きを反対した人物だった。単に反対したというより、チャンの日本行きについて知ったとき、彼女はブチ切れた。散々怒鳴り散らしたあげく、チャンの決意が固いことを見てとると、「あんたとは縁を切る!」と言い放った。そんな経緯でチャンとは他人同士になったスアンだったが、その後も週に二、三回は、夕飯時チャンの家に訪れ、いかに日本に行くのが愚かなことかをチャンたち家族に語り続けた。「そうだなあ」「そうよねえ」と相槌を打つチャンの両親や祖父母を、「そうだなあ、じゃないでしょう! お父さん、お母さんからも説得して!」と睨みつけていたスアンは、やがて家族にも説得の意思がないことを受け入れると、今度は一家ごとフェイスブックでブロックリストに入れた。そしてもちろんその後もチャンの家には通い続けた。そんなスアンが(?)、チャンの見送りにも来てくれたのである。
「何でもない」チャンは首を横に振った。「まだ時間があるから。何でもない」
 その日もまた、スアンは朝からずっと怖い顔をしていた。「しっかりしなさいってば! 日本で今みたいにぼうっとしてたら、どんなことがあるか分かんないんだよ! 教えたでしょ! 自分の身は自分で守るんだって!」
 何も教わった覚えはなかったが、チャンはとりあえず大人しく頷いた。
「本当にチャンは、いつもぼうっとしてるんだから……。そんなんで日本に行って大丈夫なの……? 明日からは、一人で何でもしなきゃいけないんだよ。分かってんの? その辺」
「分かってるってば」
「本当? 全然信じられないんだけど……」
 悲しそうな顔でスアンはため息をついた。チャンは視線を落とし、スーツケースの持ち手を握りしめ、真っ白になった自分の両手を見つめた。
「そうだ。これさっき、あっちで買ったよ」そう言うと、スアンは大きな袋をチャンに押しつけてきた。「そういえばあげてなかったわ、と思って。あっちに売ってたから。忘れてたわ、完全に。ごめんね」
 お従姉ちゃん、もう私の荷物パンパンなんだけどなんて、口が裂けても言えなさそうな空気だった。「何? これ」
「靴。チャン、走るの好きでしょ」
「靴なんか日本でも買えるよ」
「いいから。もらっといてよ。あったって困んないでしょ」
 思い切ってチャンは顔を上げた。スアンは涙ぐんでいた。約束が違うじゃん、とチャンは思った。別れの瞬間まで、ずっと怒っていてくれるはずだったのに。
「元気でね、チャン」涙声。「絶対に帰ってきてね」
「うん、うん……」泣きすぎて、声はグチャグチャだった。「帰る、帰るよ……」
 スアンの腕が伸びてきて、チャンの首に回された。チャンも彼女を抱きしめ返した。どこまでも透き通った青の下、多くの人が行き交う空港のロビーで、二人はしばらくの間、そうやって抱き合ったまま泣いた。
 無数の振られる手。ひとつの振り返す手。
 あと一千万ドン。それから、またあと一千万ドン。そういう風に考えようと、上昇していく飛行機の中でチャンは思った。全部でいくらぐらい稼がなきゃ、なんて考えたら、気が遠くなってしまいそうだから。より小さい額を目標に、それを積み重ねていこう。ちょうど走るみたいに。前に進むために、右足と左足を交互に出すみたいに。
 あと少し。そしてあと少し。……それから本当に、あと少し。
 ある意味では、チャンはスアンとの約束を守ることができなかった。日本に来てから、チャンは走るのをすっかり止めてしまった。

赤子の降る国

「すみません……」小さな声。「あのう……、ちょっといいですか……?」
 顔を上げると、先程、赤子雨の中を店に飛び込んできた巨漢の男が、またレジの前に立っていた。スマホを片手に、男はぎこちない笑みを浮かべていた。「あの、すみません」男は繰り返した。「今、大丈夫ですか……」
 えー、何なの……。勘弁してよ、こんな日に。
 そもそも明らかに男は挙動不審だった。「はい」何気なさを装いながら、彼女はレジの下の緊急ボタンにそろそろ指を伸ばした。「どうされましたか」
「ええと、あの……」ずっと落ち着かない様子で、男は髪をいじったり、腕をさすったりしていた。「よかったら、いっしょに、写真を撮ってくれませんか……?」
 およそ五秒間、チャンの思考は停止した。
「え?」自分が日本語を聞き取れなかったのかも。「何ですか?」
「いや、だから、いっしょに写真を、いいかな、と思って」
「写真? いっしょに?」
「そうそう。カメラ、カメラ。えっと、ピクチャー。いっしょに(指で自分とチャンを代わる代わる指しながら)。いいですか? いいでしょ?」
 何と言えばいいのか、彼女には全然分からなかった。
「大丈夫。レジの中にいるままでいいから」話を勝手に進めようとする男。あ、とその顔がさらに明るくなる。本当に子供みたいだった。「思い出した。何なら今、お金も持ってるよ。ほら。見て見て。お金持ちでしょ? 写真撮ってくれたら、一枚一万円あげようか……なーんて、冗談冗談」
 ポケットからくしゃくしゃの封筒を出し、その中身を男はチャンに見せた。それなりの金額が入っているのを目にし、彼女は目を丸くした。
「どう?」男は続けた。「写真。一枚だけ」
 しばらくの間、ただ何も言わず、チャンは男の顔をまっすぐ見ていた。しばらくの間といっても、数秒の間だけだけど。その時の彼女にとって、それは永遠のような長さに感じられた。色々なことを考えた。あるいは何も考えなかった。その瞬間、ふたつは同じことだった。
 急に、素早く彼女は前に手を伸ばした。そして男の手から、そこに握られている封筒を、思い切り引ったくった。
「あっ!」男は叫び声を上げた。「えっ!? えっ!!! おい!!!!!」
 もう遅かった。
 レジの後ろで小さく助走をつけると、彼女は床を蹴り、勢いよくレジカウンターを飛び越えた。置いてあった色々な物は蹴り飛ばした。でももちろんそんなこと全然気にしなかった。レシートが舞い、チロルチョコが散乱する床に着地すると、そのままの勢いでまた駆け出した。後ろから大声が聞こえた。でもそんなことも彼女には関係なかった。彼女は走った。完璧なタイミングで自動ドアが開いた。どうぞ、とでも言うかのように。全然スピードを緩めないまま、彼女はコンビニから飛び出した。
 外はとても明るかった。全体が赤く発光しているかのようだった。目が眩み、前があまり見えなかった。それでも彼女は走り続けた。封筒を握りしめ、風の音だけを聞きながら。こんなに思い切り走るのは久しぶりだった。爽快な気分だった。口元が緩んだ。どこまでも走っていける気がした。そうだ。彼女は思った。このまま走って国まで帰ろう。そうしよう。そして家族や友達に会って、たくさん話をしよう。日本であった色々なこと、それに、自分が最後どうやって大金を得たのかも。きっとみんな笑ってくれる。ずっと話せていないみんなと話そう。流石に着いた後、しばらくは息が切れて話せないだろうけど、時間なんて余るほどあるはずだから。彼女は走った。ただ走り続けた。世界は赤で満ちていた。その時、誰かの声が聞こえた気がした。赤い光の向こうから、誰かが彼女を呼ぶ声が。大きく息を吸い、さらに速度を上げた。あっちに行かないと! すると強い風が後ろから吹いてきた。走りながら、風に身を任せると、いつの間にか前は光で溢れていて、彼女には分かった。彼女は叫んだ。ただいま! お父さん、お母さん、ただいま! 私、今、帰ってきたよ! 大変だったけど、本当に大変だったけど! ただいま! みんな、ただいま! 私ね……
 そして赤い光が優しく、走る彼女を包み込んだ。

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