2024年3月の文章図鑑

しばらくぶりに実家に帰った。実家の犬はもうおばあちゃんだから、帰るたびにどこか体に不調はないが気になるが、今のところまだしっかりした顔色をしている。足や腰を痛めたときは、たいてい物言わずじっとしている。犬はどこかが痛くても、言葉で訴えることができないから、そんな姿は気の毒だ。(そんなことを言ったら、猫だって、ていうかカマキリだってそうだけど)
今月は手持ちで持ち帰った本と、実家にあった本を読んだ。
気になった文章をいくつか書き留めた。

吉本ばなな『アムリタ(上)』(2002)

女の人が台所で立ち働いていると私はいつも、何かを思い出しそうな気持ちをもよおす。何か悲しくて、胸を締めつけること。きっと死に関係あること。生まれてきたことにも、きっと。

なにかを思い出しそうになるときってたしかにある。「もよおす」ってぴったりだ。2分後にはなにを思い出しそうだったのかさえ忘れてしまうけど。

東直子『魚を抱いて』(2024)

私は、旅に関わる映画が特に好きなのだ。生きることとは、世界を感じること。自分の身体では直接見ることができない世界も、映画はひとときの眼として私たちに見せてくれるのだと、改めて思うのだった。

たしかに映画は、他人の眼を借りているような心地がある。じゃあ、小説はなんだろう。ひとときの、脳?

安部公房『無関係な死』(1974)

西陽をうけて、ミカン色に輝いている、壁半分の大きな出窓。

ミカン色、の一言で、西陽の光がおいしそうに感じる。一方で、別の段落にある「魚の図案をちらした、枯葉色の安物のカーテン」には、食材としてよりも死体としての魚を想像させられる。「枯葉色」のせいか。この小説のこの部屋には、人間の死体が横たわっているのだ。

エスムラルダ「東海オンエア泥仕合の原因は?」(2023)

「登場人物全員、ちょっと子どもっぽいなァ(まあ、アタシからしたら実際みんな、子どもくらいの年齢だけど)」とは思ったけど、一方で、「YouTuberって、ストレスがかかる仕事なのね」とあらためて感じたわ。

ドラァグクイーンのエスムラルダさんによる芸能ニュース記事。ヤジウマだけど、「YouTuber」に色々な思いをよせる人がいるなかで、とてもフラットに優しい。声を聞いたことはないけど、彼女の文章は声が聞こえてくる。

柞刈湯葉『数を食べる』(2022)

むき出しの2は、わたしがそれまで見たどんなものよりも奇妙だった。それがそこにあるだけで視界全体が雑なコラ画像みたいになって、世界の現実感が少し下がったような気がした。そんなものをこの世界にハダカで置いといちゃダメだろ、という圧迫感があった。

現実感って、「なくなる」ものだと思っていたけど、「少し下がる」という段階があったとは。たしかに、そこにあると現実感が少しだけ下がるものってある。鏡、スライム、砂鉄、煮凝り、巨大ダム、食べ物の形の消しゴム(新品)。それらを集めて現実度を下げていけば、夢の世界に行けるのか。

波多野一郎『イカの哲学』(1965)

大助君は重労働をするときには、常によく、思わず知らずの中に歌が出てくる癖がありました。ふと、彼の口から出てくる歌は全部、国粋主義的な軍歌であるか、又は、共産主義的な、労働歌のいずれかでありました。「これ等の歌は皆、どれもこれも、何等かの政治思想(何々イズムというやつ)によって、毒されたものばかりじゃないか。政治思想に無関係な歌は一つも出てこないではないか!!」(中略)大助君は全く、自分で自分が嫌になってしまい、そして、ちょっとばかり、イカ達、乃ち、政治思想、何んとかイズム、彼んとかイズムらしきものは何もないように見えるイカ達の社会をうらやましく思うのでありました。

魚河岸でイカの積み込みをして働く大助君のプレイリストがこうなってしまったのは、日本軍で兵役に就き特攻隊の命を受けた過去や、終戦後、シベリアで強制労働に従事させられた過去の、長すぎる時間のせいだ。たとえば夜の高層ビルの、まばらに電気が点いている窓のひとつひとつのデスクにも、こんな風に人生を反芻しながら仕事をしている人がいるのだと思うと、めまいがする。

今月は以上です。

2024年3月は、寒い日と暑い日が代わる代わるやってきて、みんな大変な月だった。それとは直接関係なく、とにかく食べ物をよく味わわず食べてしまう月だった。(「味わわず」って「〇〇なう」「〇〇わず」みたいで違和感ある)

最後に、文章を切り上げるときの、かっこいい文章。

カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』(1979)

ここで、一区切りしなければなりません。ルームメートが目をさまして、タイプの音がうるさいと苦情を言っています。

2024-03


この先にはおまけのイラストしかありませんが、ご支援いただけましたら古本屋さんで文庫本を買います。

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