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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part2【p1「序」〜p4「本書で用いている2、3の概念の説明」】

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。

・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』

・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』

お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
(全文を引用することはできないので抜粋して説明するため…。)
前回は前段として本についての説明をしました。
今回は早速本の内容に触れていきます。


p1〜p3「序」

まずは概要を順番に記載し、その後それぞれに補足を加えていきます。
(語弊を恐れずわかりやすい表現にまとめているつもりです、誤解を生む表現が無いように努めます、よろしくお願いいたします。)

  1. 職業歌手の中で声楽教師の評判が落ちてきている。

  2. 「歌声の訓練」は教師が想像する以上に困難な問題である。

  3. 発声の教師は、良い教師でも悪い教師でも天才的な教師でも、厳密にはいつまでたってもアマチュアである。

  4. 歌の勉強をする人の問題を解決するにあたって、発声教師が使うのは特別な知識ではなく「聞き分ける」という能力である。

  5. 「聞き分ける」という能力は過去(17、18世紀)の偉大な発声の教師たちや、ヴァイオリンの制作者たち、音楽家上の建築家たちがもっていた。が、現代の声楽教師が相手にする歌を勉強する人たちは過去よりも複雑になっているのである。

  6. さらに、「耳から耳へ=名人から弟子へ」と引き継がれていた具体的な技術は喪失、発声器官の様々な機能と同じだけ流派が生まれ対立が生まれた。

  7. 音声の客観的研究(≒科学の進歩)によって集積されてきた知識は確かに大事だが、これらは記述的知識であり、喪失した能力、技術の穴を埋めるには至っていない。

  8. 音声研究の専門家たちが、「歌手や発声教師たちの「隠語」に過ぎない」として軽視する部分は非常に重要で、歌手や発声教師の体感や耳、いわゆる体や感覚に頼っている部分が研究されて初めて、発声教師の指導に科学的な要素が組み入れられる。

  9. それは科学的な音声研究と、歌手の歌唱活動のあいだに架け橋をかけるということになる。また発声器官は広範囲、それらの筋肉のどの運動も、声に特有の倍音を与えるのであるから、「架け橋をかける」ことは現実離れしたことではなく実現できることなのである。

  10. 本書は音声の科学に貢献するため、また発声の教師、歌手のために書かれており、歌唱の技術についてはほんのついでに触れ、ほとんどの内容は発声器官の本性を「あらゆることの前提条件」として書いている。

  11. 重要な補足、p1脚注「器官の一部だけが、不自然に頻繁に使用されていると、その結果、組織全体が破壊され、ついには働かなくなる。」

概要はこのようになっています。
ではそれぞれに大小様々な補足を加えていきます。

1.職業歌手の中で、声楽教師の評判が落ちてきている。
→フースラーは真っ先にこの事実に触れています。このことは「疑いようがない」と強調されていることからも、明確に評判が落ちてきていると強調したかったと考えられます。

2.「歌声の訓練」は、教師が想像する以上に困難な問題である。
→邦訳では以下のように書かれています。
(この箇所のように日本語が難しい故に本を読むことを諦める人もいるんじゃないかという日本語の難しさです…。)

 この問題を懸命に考慮する局外者であれば、彼が必ず引き出す結論は、多くの歌手や、アマチュアはもちろん、多くの声楽教師が想像するよりもずっとずっとやっかいなのは、発声の問題だということである。そしてそれはそのとおりなのである。

邦訳

まず「発声」という言葉。
これは原著、英語版ドイツ語版ともに「歌声を訓練すること」という言い回しをしています。’’training a voice'' 
(基本的に、英語ドイツ語で同じ意味の時は英語のみ引用します。)
日本では「歌う時の声の出し方」や「歌う前の声出し」のことを「発声」と呼んでいることから、このような邦訳になったと考えられます。
確かに「本番前に発声やっておこう。」とか、歌の練習中に「さっきの歌い出しの発声が…。」という使い方は実際に使われています。
ですがここでは「歌声の訓練」のことを指しているので、全体のニュアンスとしては「よくよく考えてみると、’’歌声を訓練する’’ってすごく難しい問題だよね」という話をしているくらいに私は捉えています。

3.発声の教師は、良い教師でも悪い教師でも天才的な教師でも、厳密にはいつまでたってもアマチュアである。
→フースラーはどのような発声の教師であっても厳密にはいつまでたってもアマチュアであると言い切っています。「厳密にはいつまでたってもアマチュア」というのはある意味天井がない、とポジティブに捉える程度でよいと考えています。

4.歌の勉強をする人の問題を解決するにあたって、発声教師が使うのは特別な知識ではなく、「聞き分ける」という能力である。
→「聞き分ける」能力は、’’いわば夢遊病的な的確さしかない能力’’と書かれています。
ここは英語版を引用すると以下のようになっています。
’’Our ears have lost that strange kind of intuitive, almost somnambulistic intelligence, together with its extraordinarily accurate discriminative faculty.''
「私たちの耳は、直感的な、ほとんど夢遊病者のような奇妙な知性を、極めて正確な識別能力とともに失ってしまったのだ。」
私は英語話者ではないため翻訳については基本的にDeepL翻訳を使っていますのでご了承ください。
夢遊病者とはsomnambulisticの翻訳であり、これは夢遊病や睡眠中の活動を指しますが、ズバリ夢遊病についてだけではなく夢のような状態やトランスのような状態を表すために使用できるようです。
ここでは、いわゆる夢遊病のような=トランス=フロー=ゾーン状態と捉えるとわかりやすいのではないかと考えています。
砕けた言葉で理解しやすくすると、
・歌の訓練の問題を解決できるのは特別な知識ではなく「聞き分ける」能力。
・それがどんな能力なのかと言えば、ゾーン状態のようないわゆる感覚が研ぎ澄まされた状態で音を聞いて、「見えない発声器官の状態まで、直感的に音から聞き分ける」能力。
・でもその「聞き分ける」能力は、発声器官の状態まで識別する能力と一緒に失われてしまった。
といったところでしょうか。
もーーっとものすごく平たく言うと、耳でしっかり聞くことが、歌声の訓練において大事ということです。

5.「聞き分ける」という能力は、過去(17、18世紀)の偉大な発声の教師たちや、ヴァイオリンの制作者たち、音楽会場の建築家たちがもっていた。が、現代の声楽教師が相手にする歌を勉強する人たちは、過去よりも複雑になっているのである。
→複雑、についてはここではこれ以上触れられていません。
その複雑性についてはこの先触れられていく内容全てにかかっていると言っても過言ではないと考えています。
故に、ここで私の思う「複雑」とは何かを少し深掘りします。
ここで複雑と言われているのは発声器官自体、あるいは発声器官の使い方のことを指していると考えられますが、発声器官についての悩み、とも取れるというのが私の理解です。
(「悩み」とキャッチーな言い方はしていますが、これはわかりやすさ重視の言葉のため本人の自覚の有無は重要ではない点が注意点です。)
例えば世間一般でよく歌われるジャンルが17世紀と比べると変わっていたり、それによって人気の歌い方が17世紀とは違ったり、美的感覚、美しいと思う音楽や声、モラルセンスが17世紀とは異なっていること、文化的背景の違い、生活習慣や近代のインターネットの台頭ナドナド挙げるとキリがないほど17世紀と現在には違いがあります。
そしてそれらの違いは、出したい声の違いを生んだり、声を学ぶ人たちの声の違い、悩みの違いを生み、結果として「発声器官の悩みが複雑化」していると捉えています。

6.「耳から耳へ=名人から弟子へ」と引き継がれていた具体的な技術は喪失、発声器官の様々な機能と同じだけ流派が生まれ対立が生まれた。
→ここで言われている「喪失」は先ほど触れられていた17、18世紀の方々が持っていたと触れられている「聞き分ける」能力をはじめとして歌の訓練や声の訓練で用いられていた技術も含んでいると考えられます。
様々な流派が生まれた件についてはボイストレーニングの様々なメソッドが現代にあることからもこれについては納得感がありますね。

7.音声の客観的研究(≒科学の進歩)によって集積されてきた知識は確かに大事だが、これらは記述的知識であり、喪失した能力、技術の穴を埋めるには至っていない。
→フースラーはここで
’’発声器官のさまざまな事象である音声とその性質を真剣に研究に取り入れないからである’’
と邦訳版によると述べており、
解説版ではさらに
’’声を研究すると云うことは「発声器官の活動の様子を観察し研究すること」である。ここで問題なのは「発声器官の伺い見ることのできない部分をどうやって察知するか」と云うことで。其処に「研究の鍵」がある。だが、それは、現在でも不可能に近い。’’
’’結局、ベル・カントの時代の教師の様に、「発声器官に起こっている事象の現れである音声と、その性質について考えると云う手段」しかのこされていないのだ。’’
’’その時代の手法は「経験主義」’’
’’「科学的な原理よりは、むしろ観察あるいは実際的な経験に基づく考え方」である。’’
としています。
簡単に言うと「科学的な研究だけでは歌や声の訓練をするには不十分で、観察や実際の経験基づいて指導する必要がある」と述べられています。

8.音声研究の専門家たちが、「歌手や発声教師たちの「隠語」に過ぎない」として軽視する部分は非常に重要で、歌手や発声教師の体感や耳、いわゆる体や感覚に頼っている部分が研究されて初めて、発声教師の指導に科学的な要素が組み入れられる。
→感覚に頼っている部分が科学的研究では軽視されている故に、そこをさらに研究していくことができれば指導に活用していけるだろう、と述べていると捉えています。

9.それは科学的な音声研究と、歌手の歌唱活動のあいだに架け橋をかけるということになる。また発声器官は広範囲、それらの筋肉のどの運動も、声に特有の倍音を与えるのであるから、「架け橋をかける」ことは現実離れしたことではなく実現できることなのである。
→発声器官というのはいわゆる声帯のことだけではありません。
発声に関わる筋肉や、声の倍音に影響を与えるあらゆる筋肉を含めた体の全て。
それらは余すことなく声の倍音、もっと簡単な言葉で声色に影響を与えると述べています。
ここから読み解けるのは声の倍音と筋肉の関係性が科学的に研究されていくことによって、その研究が歌手や発声教師の力となる、ということです。

10.本書は音声の科学に貢献するため、また発声の教師、歌手のために書かれており、歌唱の技術についてはほんのついでに触れ、ほとんどの内容は発声器官の本性を「あらゆることの前提条件」として書いている。
→声に関わることの前提条件として、「発声器官とはなんぞや?」を書いていると読み取れます。
また、上記のまとめには書いていませんが、’’これらの人々(音声の科学、発声教師、歌手のこと)が彼らの目的を追求してゆくにあたって知る必要がないことは極力除外した。’’とフースラーは述べています。
ここから読み解けるのは、
【「発声器官」について深く知ることは、発声教師や歌手にとって除外することのできない重要な知識であり、そしてその知識はこの本に書いている。】ということです。
歌唱技術に触れていない内容を飛ばして読むことをフースラーは想定していないとも取れます。

11.重要な補足、p1脚注「器官の一部だけが、不自然に頻繁に使用されていると、その結果、組織全体が破壊され、ついには働かなくなる。」
→間に入れると理解の妨げになるかと思い最後に持ってきましたが、非常に重要なことに触れていると考えています。

解説版でも下記のように触れられています。
’’発声技術に関して誰もが陥りやすい誤りの一つは、「或る絶対的な方法を求めようとする傾向」である’’
今時よく見る「これだけやっていればOK!」といった文言がつけられた情報もこれらに入ってくると考えます。こういった情報は現代のインターネットでは流行しやすく(いわゆるバズりやすいというやつです)実際にそのような情報から独自でトレーニングを始めている方も多いと考えています。
やはり訓練をする方は「絶対的」で「わかりやすい」方法を求めており、そのような言葉が連ねられた動画や記事は多く再生され多く閲覧されるものだと思います。

しかしフースラーのこの脚注を踏まえて考えると、
「これだけやっていれば声が良くなる、といったトレーニング法などは発声器官を偏った使い方で酷使し、危険な場合がある」と考えられます。
内容や情報の受け手の状況によっては一時的にポジティブな効果があったと感じられるものもあるかもしれません。
実際に改善しました!という声がある可能性も否定できません。
ただし、それは万人の声に必ず良い結果だけをもたらし続けると保証されているものではないと考えます。
また’’不自然に頻繁に使用’’することがネガティブな結果を引き起こす可能性がありますので、すぐに判断できるものではありません。
’’生理学の様々な分野で見られる’’とされるこの法則は、発声教師も、歌手、声を学ぶ方々も頭の片隅に置いておくと良いと考えます。

以上が「序」の内容になります。
発声教師や歌手、さらには「歌の訓練」を取り巻く状況について触れている内容でした。
続けて、第1章…と入る前に、補足的なページが入っています。
次はそちらを見ていきましょう。


p4「本書で用いている2,3の概念の説明」

ここはこの先フースラーが本文に入っていくにあたり「私フースラーはこの考え方を基本としています」と宣言しているようなものと捉えるのがよいと考えています。

読む際に1つ1つを切り取って読むと過激だなぁと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、逆に捉えるとポジティブであると考えることができます。

例えば…1、2を複合して考えると
「ふつうの方は、発声器官が非生理学的な働きをしてしまっている」
ということは
「発声器官が生理学的に働くことができるようになれば、声楽的発声ができる」
とフースラーは考えているのではないか、と取れます。
頭を柔らかく!凝り固まった思考をせず!自分の中の常識にとらわれず!まずはフースラーがどのようなことを述べているのかに頭を委ねて、この項目を「そういう考え方なんだ〜」と頭の片隅に置いておくとこの先の内容が理解しやすくなる場所があると思います。

以下太字、邦訳版の本項目の内容です。

1.生理学的とは、発声器官が、声楽的発声として本来予定されている通りの働き方をしている状態のことをいい ー 非生理学的とは、発声器官で行われていることが、声楽発声機構の規定に反している時のことをいう。

2.ふつうの(標準的な)ということは、例えば、自然のままの状態が損なわれていないことを意味するのではなく、全く反対に、人間の通常状態においては発声器官が常に自然の法則に反して非生理学的な働きをしている状態を意味する。

3.自然歌手とは、この本では次の意味に解釈すべきである。(歌手仲間ではいつもそう理解されている。)つまり、その発声器官が最初から発声器官のもつ本性に適った、かなりよい働きをしている歌手のことをいう。つまり自然歌手は最初から、どんな場合でも価値のある声で歌っているのである。(医学的な文献で自然歌手というのはふつうはこれと反対の意味に使う。すなわち通常の人の持つ欠点を、そのままさらけ出して歌う人のことをいう)自然歌手と一般の歌手の異なる点は、一般の歌手では適切な訓練によってはじめて、その声が開放され、訓練によって初めて本当の声が「引き出される」ことである。ただしこれは理想的な形を想定した場合の話であって、実際には、何から何まで訓練によって「作り上げられた」歌手、いわばまったく訓練だけによってその声を獲得したという歌手はおらず、自然歌手の場合でも、天性のすぐれた感覚を使って自分の声を改善しようと試みたことがまったくない、というような「自然歌手」もいるはずはないのである。


今回はここまでで一旦区切りとしたいと思います。
次回は第1章基礎原理に入っていきますので、よろしくお願いします。



P.S. 基本的には記述内容の理解を助けるように書くよう努めていきたいのですが、ところどころ自分の意見を入れすぎているような気もしました…文章が拙く申し訳ありませんが、お付き合いいただけますと幸いです。

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