Divided Individuals メタバースのひと
1. 本記事の範囲
この記事では、メタバースに暮らす「ひと」とその集まりについて考えます。
最初に確認しておくべきなのは、「メタバース」という語の範囲です。というのも、「メタバース」と言っても現在は様々なものを指していて、分野の異なる人同士では齟齬が生じてしまうためです。この記事で何を語るかを明確にするためにも、ここで定義をしておきます。
この記事では、「メタバース」と言ったとき、「仮想現実(Virtual Reality)技術とインターネットによって人為的につくられた仮想空間の集合」を指します。Social VR、VR SNSとも呼ばれるもので、2000年のSecond Lifeに始まり、現在は世界最大規模のプラットフォームVR Chatを筆頭に幾つかの企業がプラットフォームを事業として展開しています。近年の「メタバース」ブームは旧FacebookがMetaと名称変更したことによります。
時事的な、経済的なトピックはあまり取り上げないつもりです。なぜなら、この記事で問題とするのは少し未来のメタバース一般についてであり、そこに住むひとと、そのコミュニケーションによって成り立つ社会だからです。
「メタバース」という名称は、N・スティーブンソンのSF小説『スノウ・クラッシュ』(1992年)に登場する概念であり、「超 meta-」と「宇宙 universe」からの造語です。universeに語源を遡ると、”late Middle English: from Old French univers or Latin universum, neuter of universus ‘combined into one, whole’, from uni- ‘one’ + versus ‘turned’ (past participle of vertere).”(New Oxford American Dictionary)とあり、”vertere”とは”turn”(versusはvertereの過去分詞)、「一つの uni」ところに全てのものがturn=combineされたもの、すなわち世界=宇宙です。また、meta-には”1 denoting a change of position or condition: metamorphosis | metathesis. 2 denoting position behind, after, or beyond: metacarpus. 3 denoting something of a higher or second-order kind: metalanguage | metonym.”(New Oxford American Dictionary)とあり、後に続く語の外にあるものを指す接頭辞だとわかります。「一つのところに全てのものがturn=combineされたもの」の「外に」とは語義矛盾な気がしますが、ここではかつてuniverseだったものを『メタバース進化論』(下記)の「物理現実」という語を参照して、phyverse(physical+universe)と再定義することで、metaverseとphyverseという二つの「turn=combineされたもの versus」すなわち「世界」が並び立つ世界観を想定します。
2. 本記事の立ち位置と参考文献
ちょうど上記にあるように、この記事では、少し未来のメタバース一般、そこに住むひとについて考えます。メタバースに住む「ひと」について、実存主義と分人主義(個人主義批判)からのアプローチ。
この記事は、議論のバックグラウンドとして主に『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(東浩紀)、『メタバース進化論 仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』(バーチャル美少女ねむ)、『実験の民主主義 トクヴィルからファンダム』(宇野重規)に依ります。
3. 身体の複数化
人間とは何か、という問いは哲学の主要な問いの一つであり続けてきました。それでも、人間にはずっと一つの身体しかありませんでした。メタバースでは、その身体の単数性が裏切られることになります。「アバター」です。アバター(Avator)とは「分身」の意味で、ここではメタバースで用いられる3Dモデルを指します。
アバターの存在の何が問題か。それは、(前述のように)身体の単数性の剥奪、つまりひとが複数の身体を持つことです。アバターは「衣服」か「身体」か(どのように了解されるか)、という問いはそれだけで面白いのですが、ここではphyverseでいう「生身の」身体から衣服、さらに仕草や声、言葉遣いまでの広い範囲を指して「身体(性)」とします。『メタバース進化論』ではここでいう「身体」をデザインすることを「アイデンティティのコスプレ」と呼んでいます。
メタバースに入ることで、phyverseに実存(exist)している身体からメタバースでの「身体」へ、「この私」が引き出されます。phyverseの実存を「脱ぎ」、メタバースの実存を「着る」このプロセスは、「この私」=シニフィエ(指し示されるもの、意味)が新たな身体=シニフィアン(指し示すもの、記号)に流し込まれる瞬間でもあります。メタバースに現前する身体に「この私」を見出せるのは、この過去の瞬間があるからです。
しかし、「この私」がmetaverseとphyverseの複数のシニフィアン(身体)に亘るようになった結果、ある一つのシニフィアン(身体)からただ一つだけのシニフィエ(「この私」)に遡ることはできなくなります。実は、この議論はmetaverseへの(「この私」の)移動がなくても成立します。平野啓一郎さんが提唱した、個人主義批判としての分人主義では、あるひとの中に一つの「自我」「本当の自分」=唯一の一貫した同一性はない、とみなします。「私たちは、ごく自然に、相手の個性との間に調和を見出そうとし、コミュニケーション可能な人格をその都度生じさせ、その人格を現に生きている」(「分人とは何か」『私とは何か』)服装(コスチューム)から一つ一つの仕草まで、置かれたコンテクスト(文脈、ここでは相手とのコミュニケーションの文脈)が「人格」の現存する構成要素であり、ここでいう「身体」とほぼ等しい範囲を持ちます。つまり、コミュニケーションに現れるコンテクストが、この記事の流れではversus=世界と対応しています。あるversus(metaverseかphyverseのどちらか)というコンテクスト上で与えられる身体(記号)の同一性は、「この私」とは等しくないのです。
「本当の自分」というものはない、これが分人主義の姿勢ですが、では何故それにも関わらず、「この私」という一人称=自意識、言い換えれば、同じひとであるという意識(の連続性)を持つのでしょうか。phyverseではたった一つの、つまり単数性を持った身体を根拠に「同じひと」だということができます。しかし、metaverseへの移動によってその単数性を喪失し、それぞれの身体からは「この私」には遡行できないひとにとって、「この私」と語られるものは何か?
4. 心の発見
metaverseに移動するとき、ひとは自らの実存、そして実存で満ちた世界を一度否定(拒否)し、あるいは引き離します。プロセスの中で、phyverseの実存を「脱ぐ」瞬間から、メタバースの実存を「着る」瞬間までの間に、「この私」は実存を持たないひとになります。この実存を拒否する動きを「引きこもる」と呼ぶことにします。「実存 exisitence」とは、「外に ex-」「立つ sist」ものであり、それを拒否する、「この私」の外側にあるものを拒否し、外側が自分を照らし出すのを拒否します。phyverseにいた「この私」から、実存を否定し、実存がない「この私」、そしてmetavserseに移動した「この私」は連続しています。「この私」とは実存している自分だけでなく、実存(ex-sist)していない自分も指します。ここで、「実存していない自分」、「心」が見出されます。
心と実存との関係を確認しておきます。心は実存を「外側」(接頭辞ex-で表される)としたときの「内側」です。心の世界と実存の世界があるということです。注意すべきなのは、この「世界」とはversusのことではないということです。metaverse、phyverseに並んで心の世界(coreverse)があるのではなく、2つのversus、実存の世界(existential world)とある境界線で隔てられた心の世界(core world)です。このworld間の境界線を内から外(心から実存)へ越えることをex-で、versus間の境界を越えることをmeta-で表します。meta-というプロセスでは、「この私」が一度、心にin-(ex-の逆)して心を発見し、再び実存(ex-sistence)の世界に引き出され(be ex-tracted)ます。
ただし、心を発見するとき、「この私」という一人称は、積極的に自らの存在を確認できません。「引きこもり」の過程で心を実存から遮断し、実存が心を照らし出すことを拒絶します。その「外側」がもはや想定されない心の世界は暗闇に閉ざされ、「個」としての一貫性も同一性もなく(同一性は実存から差し込む光によって決定される)、分裂しかけた「この私」という自意識の小さな灯火があるだけです。「個人」であることは、身体(実存)の単数性に担保されなければならなかったのです。
5. 電話線の網目
心が発見されたその瞬間、再び「この私」は、固有名と身体を持ったひととして実存させられます。しかしすでに心は発見されています。
『存在論的、郵便的』で東浩紀さんは、現代フランスの哲学者ジャック・デリダの後期の著作から「郵便空間」の理論を抽出しました。テクスト(手紙)はひととひとの間に広がるネットワーク(郵便空間)を通る。その過程でテクストは行方不明になるかもしれないし、間違ったふう(送り出したものとは異なるふう)に届くかもしれない。この不確定性が、テクストの同一性(意味)の決定を先延ばしにし続けます。テクストはひとに届いたときに、送り出された元のコンテクスト(文脈)とは異なるコンテクストに「引用」され、「反復」され、異なる同一性を与えられます。デリダさんは、テクストの同一性の決定の保留について、ひとの間のネットワークから考えたのでした。
さて、「この私」が再び(metaverseの)実存に引き出されたとき、今度は「この私」は実存しているにも関わらず、実存していない心の世界を知っています。では心はどのように振る舞うのか?
分人とはそれ自体がコンテクストです。再び引用しますが、「私たちは、ごく自然に、相手の個性との間に調和を見出そうとし、コミュニケーション可能な人格をその都度生じさせ、その人格を現に生きている」一つの人格=分人はある特定の相手、あるいは場や状況と対応しています。そこで交わされる会話(ノンバーバル=非言語的なコミュニケーションも含め)にはコンテクストがあり、分人はそこに参加(take part of)しています。その分人にはそのコンテクストが組み込まれていて、そのコンテクストはその分人を組み込んでいます。コンテクストにはその場の複数の異なるひとの分人が参加していますが、同じコンテクストを共有しています。分人はコンテクストと完全に対応はしません。コンテクストの中で、分人同士はコミュニケーションをとります。そこには前述の不確定性があります。分人は、場のコンテクストの中のコンテクスト、つまり、場のコンテクスト上にいる他の分人に「読まれる」コンテクストです。
そこに、「この私」の向こうからテクスト(手紙)が届きます。そのテクストは分人のコンテクストに引用され、元のコンテクストとは異なったように読まれ、意味を与えられます。この「元のコンテクスト」とは何のことか? それは、「この私」に所属する別の分人のコンテクストです。同じ「この私」の分人の間を、テクストーーそれは例えば、ちょっとした仕草であったりするーー、が行き来します。
分人の間にあるネットワーク空間、それが心です。実際、平野啓一郎さんは「その中心には自我や『本当の自分』は存在していない。ただ、人格どうしがリンクされ、ネットワーク化されているだけである」(「分人とは何か」『私とは何か』)と述べています。デリダさんはまた、ネットワーク空間の一つの経路として電話と電話線を例えにしていますが、心とはそのような「電話線」の網目なのです。これは平野さんが言うように、分人たちには「本当の自分」がない、ということと矛盾しません。心の世界は、電話線の網目の外はやはり暗闇に閉ざされています。複数の分人同士の手紙のやり取りによって、ここで心の世界の働きとして、電話線の網目=ネットワーク空間が見出されたにすぎないのです。
分人の実存は、心の世界と実存の世界(という異なる2つの「郵便空間」)のつなぎ目、接するところにあります。テクストが心の世界にin-し、心の世界からex-する入り口として働いています。
6. 「ここにいるこの私」
分人は「ここにいるこの私」と語ることができます。この句は混乱を呼びます。というのも、「ここにいる」には一つの身体の実存が含意されていますが、「この私」は一つの身体からはみ出して、複数の異なる身体を含み、さらに実存しない心を含みます。それら全てが「この私」という一人称にごちゃっと格納されているのです。そのため、「この私」は「ここにいる」身体=分人を超えて広がるのですが、にも関わらず、分人は「ここにいるこの私」と発話することができます。確かに「この私」は「ここにいる」のです。それはある分人のコンテクストにおいて、「この私」という語が引用されているからです。分人のコンテクストの中で「この私」は「ここにいる」ものとして同一性(意味)を与えられます。それと同時に、「この私」は別の分人のコンテクストでも同じように引用され、異なる同一性を与えられます。
これは、デリダさんが「散種」と呼ぶものの効果です。「この私」という書字(エクリチュール)は、同じ「この私」だから引用、反復され、異なるコンテクストでそれぞれ違う同一性を持つことになります。(「書字」とは隠喩であり、書かれたものに限らず記号全般にこの性質があります。)
分人=身体=実存が複数化したことで、分人のコンテクストも複数になり、「この私」を巡ってこのような事態が起こります。ただし前述のように、この議論は「この私」のmetaverseへの移動、というより、属するversusの複数化=複数所属化がなくても成立します。
「ここにいるこの私」という句が、「この私」は実存していない心に引きこもろうとするのですが、「ここにいる」、実存として引き出されている、ひとの置かれたそのような状況を端的に表しているのです。
7. 自由の不安と眩暈
versusの複数所属化のプロセスにおいて、自らの実存を一度否定してmetaerseへ移動しようとすることは、そのphyverseの実存=分人の持つ人間関係を切り離すことでもあります。phyverseでの人間関係は、身体が一つしかないことに由来する「関係せざるを得ない関係」です。しかし、身体が複数化すると「この私」はもはや身体の単数性による「せざるを得ない」の拘束を逃れ、「自ら関係していく関係」に投げ込まれます。身体が複数化している時点で、「この私」は実存の世界(existential world)であるmetaverseに実存として引き出されていて、そこで「この私」は、他者の眼差しに容赦なく晒されてます。「この私」にとって他者との関係はもはや自由であり、だからこそ不安と眩暈に苛まれます。他者がすぐそばにいて「関係せざるを得ない」phyverseと違い、metaverseでは他者と自分との間に無限遠の距離があります。「自ら関係してい」かなければ、他者はずっと遠いままです。
8. 孤独と不安定
宇野重規さんの『実験の民主主義』によれば、19世紀前半のフランスの政治学者トクヴィルは、他者との関係が希薄化し、自分の世界にだんだん閉じこもっていくのに、外の世界に関心を抱き続けることを「個人主義」と言いました。トクヴィルはフランス革命後の時代を生きたひとであり、「個人」の時代が始まろうとしているときでした。フランス革命以降、近代社会は個人主義を基盤としてきました(分人主義はそれに抗するものです)が、トクヴィルの「個人主義」はそれとは異なるものです。
この記事での議論にトクヴィルの「個人主義」を援用することができるでしょう。「自分の世界に閉じこもっていく」というのは、ここでの用語では(実存を拒絶し心の世界に)「引きこもる」ことであり、「外の世界」(external world)とはまさに「実存の世界(existential world)」です。metaverseのひとは、心を発見して引きこもるとき、「個」としての一貫性も同一性もなく、分裂しかけた「この私」であり、近代のひと(個人)よりも孤独で不安定です。
だからこそ、「外の世界」に強い関心を持つ=他者との強い精神的なつながりを求めます。実は、「この私」は実存に引き出される(be ex-tracted to)のではなく、孤独と不安定にけしかけられて自ら実存に出ていく(exit to)のです。従って、前に記したことは訂正しなければなりません。
一方で、metaverseでは他者は遠く離れていて、他者と近づくには自由の不安と眩暈を乗り越えて「自ら関係していく」しかありません。ひとびとはphyverseよりも分散していくことになります。
おわりっ。
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