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天性の才能と努力で開花したガウディ

スペインにまだ行ったことがありません。

見たいものはたくさん。

アルハンブラ宮殿、コルドバのメスキータ、トレドの街、etc...

でも最初はベタに「サグラダ・ファミリア」でしょうか。

「サグラダ・ファミリア」とは、ヨセフ、マリア、イエスからなる「聖家族」の意味。

1882年着工。初代建築家が辞任したあとで、1883年に後を引き継いだのがアントニオ・ガウディ。

未だ未完成の大聖堂は、世界で唯一入場料が必要な工場現場とも言われているそう。


1852年、カタルーニャ南部の貧しい職人の家に生まれたガウディ。

21歳でバルセロナの建築学校に進学。

せっかく苦労して入学しても、学費や生活費が不足で、毎日建築現場で長時間アルバイト。学校になかなか行けないまま。

しかし結果的に、教室の机上での理論より、建築現場での経験が、ガウディに多くのことを教えてくれることに。

もともと職人の子で、現場の職人から素直に教えを乞う建築家の卵だったガウディ。

ガウディは、「現場」というもう一つの学校で、建築を学んでいくことに。

学校での成績はそれほど優秀ではなかったけれど、卒業するころには、建築家として自分の美学と信念をすでに持っていた人。

しかし、卒業してからも、経済的に苦しい状況が続くことになるガウディ。

設計を彼に依頼してくれるお金持ちの知人は、残念ながらいませんでした。

ある日 思い立ったガウディは高価なスーツやシルクハットを着用。

高級レストランで豪華な食事、オペラを高額な席で鑑賞。

何としても上流社会に溶け込み、顧客を獲得しようと試行錯誤。

そんな努力がみのり、チャンス到来。

パリ万博出品のために作った小さな手袋用のショーケースを制作することに。そして、この作品に高評価が集まることに。

このショーケースを特に気に入ったのが、エウセビオ・グエル。

実業家であり芸術を愛したグエルは、ガウディの最高のスポンサーに。

グエルの依頼で、グエル別邸、グエル邸、グエル公園と建築作品を造り続けるガウディ。

ガウディの才能は広く知れわたり、仕事の依頼も増加。

ガウディにとってグエルに出会えたことが、建築家として成功する大きな出来事だったのでしょうね。

ガウディが「サグラダ・ファミリア」設計の依頼を受けたのは、彼が31歳のとき。

大聖堂の設計依頼は建築家にとってとても名誉なこと。しかも収入が毎月安定。

依頼を快諾するガウディ。

ガウディの美学は、依頼主が気持ち良く暮らせるよう設計を考えること。

その美学のため、聖堂の設計で壁にぶつかってしまうことに。

貧しさゆえの苦労や、親兄弟を早くに失う不幸を体験してきたガウディ。

それゆえカトリック信者ではあったけれど、信仰心は薄い人でした。

しかし、聖堂の主人は神であり、神にとって心地良い場所を設計しなければならなくなったガウディ。

ガウディは神のことを知るため、たくさんのキリスト教関連の本を読み進めます。

次第に彼の心は変化。神を実感し、神を信じるように。

ガウディは聖堂建設を自分の天命と受け止め、自身は質素な生活を選択。

自分の人生の全てを、大聖堂建設に注ぐようになっていったガウディ。

悲劇はある日突然でした。

いつも通りに仕事を終え帰る途中、電車に跳ねられた老人。

身なりがみすぼらしかったため、4台のタクシーがその老人を拒否。

ようやく運ばれた病院でも、浮浪者と思われ、精密検査もされないまま放置。

その老人が、有名なガウディであると判明したのは深夜過ぎ。

スペイン中の人たちが祈り続ける中、3日後 ガウディは73歳で逝去。

最期は悲しい終わりかただったけど、逆境に屈することなく、諦めることなく、自分の道を切り開き、最後は神のために自分の人生をかけた、天才ガウディ。

生涯をかけた「サグラダ・ファミリア」の地下の礼拝堂に眠るガウディは、いつの日か大聖堂が完成する日を見守っているのでしょうか?


バルセロナのアントニオ・ガウディ作品群は、1984年 世界遺産に登録されてます。







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