見出し画像

「アイドルに関するabcd…のレチタティーヴォ」に関する備忘録。

ある側面、とても意地悪な企画だったよなあ、と思うのである。
ライブアイドルを(ニュートラルに言えば)鑑賞するということに横たわっている構造に強引に光を当てるような。

我々が手渡されたテキストは、以下のとおりである。

まず、あの小さな空間において我々は、合意においてと言う注釈があるにしても、一定の「公共」の元に引きずり出された。
その公共とは、ステージとフロアという、段差や照明の明暗で切り分けられた空間によらず、アイドルとファンが(教室のような対面関係にあるにせよ)同じ空間で、衆人環視の元に言葉を交わす場所のことである。

そこでは我々ファンの言葉は顔と声という質量と共に、即時性を持って同時に空間に存在する他者に届いてしまう。
何となればアイドルはその場を導く「教師」のようにテキストを携えて立っており、その表現は極限まで抑制されているわけで、あの場において「表現」をしているのは参加したファンの側だけであるようにも見える。
敢えてこの論をさらに明瞭にするならば、我々ファンが(分けてもアイドルについて)言葉を発する空間は、特典会という一応の1対1が確保された(しかもたぶんに商業的な)場所、またはSNSという言葉が声や顔という質量を持たず、一定の時間・空間的な隔たりを持って伝達される(そして発言者にはプライベートと認識される)場所である、ということとの対比が、あの場所には存在していたのだ、と考える。

(他者のことを「意地が悪い」と言っておいて、実は自分も相当底意地が悪い野宿は、ファンの間のヒエラルキーを形成するには熱心でありながら、同時に定型化された好意の表出以外には沈黙を強制するような「行為義認」……つまり一定の行動様式を踏まえることこそがファンとしての正しい態度であると規定するかのような……価値観すらも白日の元に晒したようにも感じるのであるが(なお、ここでの最大のツッコミどころは、こんな発言をnoteという穴蔵で、しかもカッコの中に入れて発言している点である。しかも二重に。)。)

つまり、自分の表現を公の空間に投げて、その反応を即時性のある直接のオタクの言葉として受け取り、そのことに対するまた公共性を伴う即時性のある言葉として返すことが求められる、というのが、ライブアイドルという表現形態の一つの性質なのであって、その一部を擬似的にオタクに体験させる、というのが、このレチタティーヴォの一つの本質であったのだろう。

ついでに言えば、我々はあの場所で「名前のイニシャルから自動的に決定されるニックネーム」(俺の場合は「野宿」のNから”Night”。Solitudeの方ならStrawberryなんだが。)というアバターを纏っていたし、あのたった数人しかいない空間での一応の「消え物」としての表現”のようなもの”をおこなった我々との対比で言えば、表現者としてのアイデンティティが完全に乗っかっている名前で、しかも継続的に、さらに広く世間一般に向けて表現活動を行なっている人たちのマインドセットというものは、想像するに余りあるものがある。
リアルにおいて幾許かの「顔と名前」を伴った活動を行っているのは誰しも多かれ少なかれそうなのであるが、それにしても。
(これは俺が一応組織に属する人間であって、その行為の責任と利益は、一旦組織の名において享受されるということに起因する感覚でもあろうけれども。)
わかりやすく言えば、まのちゃんなんか完全に(ネトゲ的表現としての)「本名プレイ」だし。

かかるレチタティーヴォは、3つのバリエーションによって進行された。
ざっくり言えば、
α:「好きなところ」を問われ、「嫌いなところ」を答え、
  「それでも大好きなんです。」と結ぶ。
β:「嫌いなところ」を問われ、「好きなところ」を答え、
  「大好きだったんです。」と結ぶ。
γ:「私はアイドルですか?」と問われ、
  その問いを投げた者がアイドルである理由、
  またはアイドルでない理由を答える。
というバリエーションだった。
γについてはその結びを含めて特殊であるので、一旦横に置くとして。

αとβは、同じ2つの文脈に関する、それぞれの表裏を表しているように思う。
つまり、αに現れるアイドルは、その表現形態の必然として人に「好かれる」ことを希求し、目の前のファンに「嫌い」という感情を投げかけられながら、その言葉を投げたファンは(わざわざ直接眼前に現れるのであるから)同時に彼女に対する好意を抱えている。

βに現れるアイドルは、何らかの理由(それは例えば「世間」に届かないという絶望か、または自身のファンに対する信頼ゆえか。)において、自分が(やはり自身の表現形態として基底された)「人に好かれる」という結果に至っていない理由を問いながら、代わりに目の前のファンに「好きな理由」を答えられ、そして互いの関係はファン側の「大好きだった。」という過去形の言葉で終わる。
それが写し出すものはアイドルとファンという関係の消失か、またはファン側の一方的な喪失、ないしはその表現を享受できる限られた時間に「間に合わなかった」という虚無である。

つまりこの二つのバリエーションは、いずれも「送り手と受け手のすれ違い」という、アイドル以外の表現形態にも普遍的に横たわる問題を浮き彫りにしているように思う。
俺が冒頭「意地悪」と書いた、二つ目の理由はそこにある。
誰もαに現れる、端的に言えば「アンチ」や、またβに現れる「喪失するオタク」にはなりたくないのである。
たとえ過去のどこかにおいて、そうした体験を経ていたとしても。または、未来においてその役割を演じることになる自分を強く予感していても。だ。
(たとえばそうすることで自分が得をする場合や、自身の中のバランスのために、アンチの役割は意識的に取っている場合があるけれども。)

たまたま俺が参加した回がそうであった、ということであったようなのだが、自分しか写ってないチェキを見た時に、俺には葬式にしか見えなかった。

そしてγである。
おそらく今回最大の問題作は、このバリエーションであった。
このバリエーションにおいては、答えるものは問いに対する一応の自由度を与えられている
ゆえに、ここで想定されるのは、ファンが目の前に現れた少女を「自分のアイドル」とするか、という、選択の局面であっただろうか。
(いうて、ここで「あなたはアイドルではありません。」と答えるのは相当勇気いるぞ。たとえフィクションとしてであったとしても。)
さらに難解なのは、このバリエーションにおいて、結句たる「好意」はアイドルによって、参加者に向けられる、ということである。しかもランダムな選択によって。
まずこの場面においては、アイドルとファンを「選ばれる者」と「選ぶ者」と規定した上で、その関係性が逆転している。
そもそもこのバリエーションにおいて、先に述べたようにまずファンの回答に一定の自由度が与えられているという時点で、もしかしたら気がつくべきなのであるが、ここでアイドルが演じるのは、「推しを選ぶ」という行為だ。
それが偶然によって選ばれる、という表現形態は正しかったのか、と問われても、おそらくその答えは「正しい」である。

我々が推しを選ぶと言う行為/または推しとして選ばないと言う行為、あるいは、その選択の場面に出会うか否か、という現象は、その相当部分が偶然性に委ねられている。
どんなにアンテナを広げたとしても、アイドルは、または「表現」は、寿ぐべきことに世界のあらゆる場所で絶えず生み出されれている。

端的に言えば、出会わないものには出会わないし、仮に出会ったとしても、その時点においてファン側の好みに合致するか、という問題には、アイドル側の表現と、ファン側の好みの時間軸上の一致という、ある種の「偶然性」が横たわっている。
(個人的経験としても、「地下アイドルとか見てみるかー。」つって、ある日の中野サンプラザに訪れなければ、その後の幾つもの表現に出会うことはなかっただろうと思っているし、逆にその後も出会うタイミングに起因して、結果として「推す」ことがなかった表現というものも、またいくつか自覚している。)

そして、この3つのバリエーションに現れるアイドルを、仮に同一の存在と見做すという文脈を加えることが許されるならば、そこには、自らの存在を世に問い、出会うべきファンに(タイミングやバイアスやそもそも届いていない、という)拒絶されまたはすれ違い、それでも貴方を待っていた、と叫ぶ誰かの姿が浮かび上がる(わけだが、これは本気で俺が死ぬ)。

そういうややこしい話を抜きにしても、一定の表現に対して、好意で応じられるということは(それがデザインされた偶然によるものだとしても)、なんとも面映く、嬉しいものであるということを、幸運にもあの場所で体験できた、ということも、書き留めておきたい。

さて。もうひとつ。最後に。
おそらく、我々は元から照らされている。または、暴かれている。
物理的には(ロフトやWWWに顕著な)逆光の照明によって。
あるいは、エゴサーチという(ある側面においての)アイドル側の武器や、認知されたいという我々自身の欲求によって。

ファンの有形・無形の反応を受け取りたいと思うことは、ある側面において正当なマーケティングだし、またはアイドル自身が非通貨的価値において報酬……手応えややりがい、という言葉で一般化される……を得たいという、正当な欲求だ。
つまり、フロアの闇やステージとの段差や、SNSの匿名性に隠れられているということ自体が、元より幻想に過ぎない。

それらを踏まえて。
我々はあの日(少なくとも、あの指示書を読んで、それに参加しないという選択をした者も含めて)、明示的に託されたのだ。仮初めでない役割と武器を。

・・・・・・・・・。

でーーーーーい!!!(全部ぶん投げた音)
結論ここだったか?
違うぞ多分。

我々は、その前提が相対性理論によって否定されてしまった「ラプラスの魔」ですらないのである(※やべーの出てきた)。
世界の全ての因果を見ることなどは到底叶わない。
と言うかこんな教条的な結論こそ俺のキャラじゃねーんだよ。

もうわかんないので2019年5月1日(RAY001/002でもある。)の・ちゃん助けてくれ。

はいオチた。綺麗にオチた。
この日の我々の体験は約3年前に既に予言されていた。
というかこれが固定ツイートとして残ってる世界、優しすぎんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?