「売れる」の「呪い」と「射程距離」

単純化された言葉で埋め尽くされた現代が嫌いだ。
薄いコミュニケーションにはその方が都合がいいんだろうな、とは思うけれど、そこに居る人の思いを何も語らない、ただの音声や文字が、無機質でつるつるしたボールか何かのように質感を伴わずに散発的に投げ合われるような空間に違和感があるのは、俺だけではないと思いたい。
(なんか最近はそう言う質感にすら「湿度」という名前がつくらしい。)

で。そのひとつの例として。
「売れる」という言葉にいつもモヤッとした感情を抱えている。
何なら少し恐怖すら感じてしまうことがある。

理由はいくつかあるものの、「売れた」状態とはどういう状態なのか、誰も整理しないまま言葉が一人歩きしてしまっている、ということが、このモヤッとした感情の本質だろう。

一人歩きというのは、「売れたい」という曖昧な感情についてと、逆に「お前は売れていない」と乱暴に批判できる言葉になってしまっているということである。

非常にざっくり言ってしまえば、顧客のニーズに正確に応えつつ、価値創出的な製品を安定した生産計画で持続的に供給できる産業というのは、確かに「売れている」と言えるのだろう。
例えば日清のカップヌードルとか、かつての日本車とか、今この文章を打っているスマートフォンなどというものが、その例に当たるのだろうか。

ここまで書いてみて、そういえば「ブランド認知度調査」というものがあったな、と思って検索してみたら、

ブランド・ジャパン 2024 ブランドランキング発表|CCL.|日経BPコンサルティング


・イノベーティブ(革新的)
・フレンドリー(親しみやすい)
・アウトスタンディング(傑出している)
・コンビニエント(便利)
という指標でブランド力を評価していて面白い。
それから、地味にカップヌードルが4位で異常に納得した。

さて。話を元に戻す。
この文章でもともと取り上げたかった「売れる」というのは、エンターテインメントの領域の話である。
マイケル・ジャクソンやトム・クルーズについては、誰がどうみても売れた・売れている、と言っていいのだろうが、トムやマイケルではない人は、どこからが「売れた」と言えるのか、という話である。

ライブエンタメについては会場やツアー全体の動員規模を、映像の世界では出演作の展開規模(テレビなら局の種類や時間帯、映画ならスクリーン数や座席数)を基準とする考え方はあるが、特定分野で絶大な人気を誇る人については、必ずしもその指標で図ることが当てはまらないという場合もあるだろう。
簡単に言えば歌舞伎を東京ドームでやらないよね、という。門外漢としては、やってもいいと思うんだけどね。

別の指標としては「本業だけで食える」という考え方があるが、これについても、おそらく日本で一番売れてる人のうちの1人と言える福山雅治は、来歴的には音楽がやりたい人であると思われるし、椎名林檎も「歌曲は自分がやりたいことではない」と明言していたと記憶している。
で、この二人を例に挙げても、それはマイケルやトムについて語っているのとあまり変わらないよね、という。芸能だけで食えていて、ちょっと変わったことをやる余裕もある、という意味ではかなり理想的に売れている、とも言えるのだが。

あとは、規模が大きい作品は当然制作費と広告費も嵩むので、スポンサーになる大資本が存在しなければ実現が難しい、という問題もあって(アリーナクラスのコンサートには結構な確率でスペシャやWOWOWの協賛がついていたり)、日本におけるその一つの解決策が「製作委員会」方式であり、それに異議を唱えて一社制作にこだわったのが新劇場版ヱヴァンゲリヲンの庵野秀明。

つまり、事程左様に、エンタメにおいては複雑で曖昧な「売れる」という言葉が、あたかも明確な基準や実態を持っているかのように語られている、ということに、冒頭述べたようにモヤっとしてしまうし、「売れる」の基準に達していない自分たちは価値がないのだ、と思わせてしまう「呪い」のようになってしまわないか、というのが、この文章の一つの趣旨だ。

で、何でそんなことになっちゃうのか。
上で述べてきたことは「売れる」という言葉に「射程距離」が定義されていない、と言い換えることができて、それが原因なのではないか、と考えている。
つまり、射程距離を適正に設定できれば、「売れる」の呪いは軽減できるのではないだろうか。と。
(かつて駆け出し時代のPerfumeが、「月面でライブをする」という目標を語った、と語り継がれていて、そのとんでもない射程距離に非常に好感を持っているのだが。というか言い出したの誰だ。)

いや。わかるよ。
売れたいよね。
頑張ってんだから。

それから、日常の些事に自分(たち)の表現を邪魔されたくない、ということも、とてもよくわかる。
製作に適正なコストがかけられる状態自体は極めて健全な状態と言えるのだとは思う。
(規模が大きくなると不明な偉い人と不明な外野が現れてやいやい言い出す、という矛盾はあるが。)

それでも、「誰か」にとって大切な表現であり続けることは、無制限に「売れる」ことよりも価値がないことだろうか。
その「誰か」には、もちろん表現者自身も含むのであって、つまり自分自身が納得できる表現のために必要な「売れる」の規模=射程距離を適正に設定できれば、「呪い」は少しでも軽くならないだろうか、と思う。

少なくとも、俺はこの文章を「自分のこと」として読んでくれる人の表現を、あなたがやる価値があるものだと思っている、と言うことを受け取ってくれると、とても嬉しい。

とは言え、人間はわかりやすい目標設定をした方がモチベーションを上げられるのであって、会場の規模や動員数は非常にわかりやすい指標なのではあるが。
いやー、行きたいよね武道館。
または、出たいよねMステ。

と言ってこの文章は振り出しに戻る。

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