ストロー噛んでいて明日も貧しいか / 今井鴨平 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】
ストローを噛んでいる景から、語り手が貧しさの持続を確信するまでの流れがありありと分かる。
“明日”を「あす」と読むなら、句全体で十七音。「あした」なら十八音。
川柳だし、十七音で読みたいところ。だが、そうだとしてもきれいな5-7-5ではなく、9-8というリズム。(もっと細かく分けるなら4-5-3-5かも?いや、でも9-8だと思うなー…。切りすぎちゃいけない感じがする…。)
これを、下手に5-7-5「ストローを噛んで明日(あした)も貧しいか」にしてしまっては、このむなしい確信は生まれない。
十七音でありながら定型に乗り切らない音。
「ストローを噛んでいて」ではなく、“ストロー噛んでいて”。
「ストロー噛んでいて、明日も貧しいか」でもなく、“ストロー噛んでいて明日も貧しいか”。
8-9ではあっても「一息」だ。
そこには助詞や空白・読点すら入り込む余地はない。
これぞまさに貧しさ表現の極地…。
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しかも、そう言っておきながらなんだが、明日死んでしまうくらい酷い貧しさではないような気もする。“ストロー噛んでいる”くらいだから、ちょっとした喫茶店とかに入れるくらいの手持ちはあるのだろう。
(もっとも、もしかすると自分の金ではないのかも知れないが。)
悲哀を感じさせながらも、ひどい深刻さをかわしている。そこも川柳らしいなあと思ったところ。
「貧しさの極地」ではなく、あくまで「貧しさ表現の極地」。
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他にも今井鴨平は、貧しさについて、
という句も詠んでいるが、これに至っては完全に十七音という定型も捨て去っている。
一字開けもあり、一息ではない、“ストロー”の句とは少し別の次元の「切実さ」を感じる。
ずぶっ ずぶっ …と断続的に、深く、刺さってくる感じ。
また、不思議と語り手に対して自己同一化はしにくいような気がする。
読者としてはどちらかと言うと、“一枚の皿を貧しさをさら”している語り手を、外から眺め、その悲惨さに「同情」するような読み心地になるような…。
悪い意味ではなく、“裸灯 どんよく 一枚の皿”という、物体と肉体的感覚との並びや距離感が、どこかで読者を突き放している。
語り手の生活や、身体から生じてくる実感でなければ分からないような切実さと、よそよそしさがあるのではないか。読者として安易に「これは俺のことだ」とか「分かる!」などとは言わせてもらえないような語り。
対して
は、感情語のない十七音が、鈍く、しかし力のバランスは一定のままで、均質に刺さってくるような感じ。
“ストロー噛んでいて”という素朴な景によるのだと思うが、読んでいて、外から眺めるというよりも、語り手自身に自己同一化しやすい構造になっている。
それでいながら、自分自身の貧しさに対してどこか他人事であるかのように突き放している感じもよい。決して悟っているわけでもなく、俗人としてのメタ認知が効いている。
どちらの句も、読者からの移入の質は違ってくるものの、今後も生活が続いていく感じは見えてきて、「今のつらい感情」だけではない、「持続するいやな気分」が描かれているのも、いいなと思った。