蛇口捻って低気圧の雨 / みしまゆう 【現代川柳もよんでみたい!】
今回は、【現代川柳もよんでみたい!】シリーズの三回目です!
川柳人であり、小説や短歌など幅広い創作活動をされているみしまゆうさんの川柳作品を取り上げ、評を書かせていただきます。みしまさん、句の掲載についてご快諾くださり、ありがとうございます!
扱わせていただく句はこちら。
【現代川柳もよんでみたい!】の中では、初めて扱う、5-7-5ではない川柳作品です。
もともと、『砂時計』という連作中の一句なのですが、今回のnoteでは、この句の〈連作としての位置付け〉には言及せず、あくまで〈一句評〉として書き進めていくことにします。
でもでも、連作として読んでも非常に素敵な流れが感じられると思いますので、評とは別にそちらも是非ご覧になってくださいね!
それでは一句評、はじめていきます!
“蛇口”を“捻”る。その日常的な行為に、“低気圧の雨”を重ねるという景は、なかなか思いつきそうで思いつきません。
思いつきそうで…というのは、“雨”自体は、「蛇口からの水」との繋がりのなかで比較的出て来やすい言葉だと思うのですが、現代川柳を作っている人の多く(多く、は言い過ぎ?一定数…?)は、むしろその“蛇口捻って”と“雨”との「イメージの近さ」を恐れて、ついつい別の景を探し始めてしまうのではないでしょうか。
実際、「蛇口を捻って雨を降らせる」という発想自体は、昔のギャグ漫画などにもみられる描写です。神様や雷様みたいなキャラクターが、地上に雨を降らせる時に、雲のうえから蛇口を捻る…みたいな。(一例をあげるなら、『Dr.スランプ 第2巻「アラレ空をとぶ!の巻」鳥山明,集英社,1980』とか。)
しかし、この句では、その“雨”のイメージが安易に手放されることなく、むしろ、より深掘りされています。そして、“雨”に“低気圧の”という〈重み〉を付加させることによって、一気に、上七音“蛇口捻って”との間に〈現代川柳的な距離〉を獲得することに成功しているのです。
この“低気圧の”による〈重み〉は、「重くれ」とは違います。重くれは、詩の流れを堰き止めてしまう。対して〈重み〉は、詩の向かう先を方向づけていく力動だと言えるでしょう。
よく、川柳の特性して〈軽み〉という言葉があげられますが、それは「軽薄さ」とは一線を画すものだと(少なくとも評者は)思っています。
単に“蛇口”と“雨”とを結びつけるだけでは、〈軽み〉と言うよりも、むしろ「軽薄なノリ」(ナンセンスなギャグ漫画などにとってはむしろそれが大事だと思いますが。)になってしまう…。
しかし、この句は、ギャグ漫画的なナンセンスなはっちゃけとは違い、すごく地に足ついた「抑うつ的な雰囲気(方向性)」を伴っています。
現代川柳においては、“雨”の側に“低気圧の”という〈重み〉を付加させることで、むしろ句全体として見た時には「軽薄ではない〈軽み〉を帯びている」と感じられるようになることがあるのです。変な言い方かもしれませんが、「流れやす過ぎなくなる」。けれども、流れはある。
漢字ばかりの表記にもどことなく“低気圧”的な重みが感じられ、7-8というリズムによって七七句の定型から下一音が「漏れだしてしまっている」ように感じられるところも素敵です。
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句意にうつりましょう。
“蛇口捻って”という〈原因となる行為〉と、“低気圧の雨”という〈結果〉だけが淡々と提示される景。
ただ、結果とは言っても、日常においては、“低気圧の雨”自体、僕らの気だるさや、頭痛をもたらす原因、予感にもなりえます。
この句において、人の感情は一切語られていません。しかし、それでも敢えて”低気圧の”と語っていることそれ自体に、語り手の「”雨”に対する関心の向け方」だけは見えたりもする…。語り手によるそのような視点からは、“低気圧の雨”そのものによって、人々が無感動・無感覚になっていくような、抑うつ的な雰囲気を想起することができます。
そして、その“低気圧の雨”をもたらす原因である、”蛇口捻って”という行為の裏にも、なんの感情描写もありません。そこには無情さ、無慈悲さ、更にはどこか(悪意すら確定しないような)無邪気ささえ、見えてくるような気がします。
と言うか、そもそも、よく考えて全体を眺めると、かなり不思議な句です。まず明確な主語がありません。先程「抑うつ的な雰囲気」…と言いましたが、これは大事なことで、決して「抑うつ的な主体」が描かれているわけではない。主体については、そもそもなにも語られていません。分からないのです。
じゃあ誰が“蛇口”を“捻”る(あるいは捻ろうとしている)のか…?この句を語っている〈語り手〉なのかも知れないですし、誰か別の人、あるいは〈神様的な存在〉なのかも知れません。または何者かが「蛇口捻って」と命令している…なんて読み方も無しではない…。(ただ、無しではない…という余白はあるけれど、それでもやっぱり、多分命令ではないよなあ…と思考を方向づけていくだけの志向性もある川柳だと思います)
“低気圧の雨”も、(おそらくは、先程示したような「低気圧の雨が降る」という〈結果〉を示している…という読み方がしやすいとは思うのですが、それでもやっぱりそれが)「どの程度の規模でどうなるのか」は語られていません。体言止めが効いています。
句全体としても、「蛇口程度のものによって自身の体調や心理状態を左右されてしまいそうになる、危うい人間像」を描いているかもしれないし、あるいは、「信号待ちのボタンを押すような軽い気持ちで低気圧を我々に浴びせようとしてくる、無慈悲な超越者のような像」を描いているのかもしれない…。
あるいは、上空に巨大な水道の口が浮かび上がって、シャワー状に放水がはじまるような(ニュアンスとして「ファンタジー」ではないけれど)魔術的リアリズム風な景を思い浮かべることも可能です。
また、雨の日に蛇口を捻った人が、水道の口から重力のままにおちる水を眺めて、はっきりと「低気圧」を意識した、その瞬間を切り取った写生なのかもしれません。
あるいは、もっと別の…?と、(多分これは感情語だけでなく、助詞が極限まで削ぎ落とされているから…というのもあると思いますが)どんどん想像が広がっていきます。しかもそれは、あまりハッピーな連想ゲームではなく、それこそ雨雲のようにどんよりと広がっていくイメージです。で、ありながら、イメージにしてはやけに、地に足ついている…。その複雑さ…。
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どんより広がる雨雲のようなイメージは、暗さを伴いつつも、「読み手自身の暗さ」にもふわりと寄り添ってくれるものだ。…と、評者は思っています。
読者は、たとえば雨の日に、そんなイメージで頭の中を湿らせつつ、自分自身は布団でぬくぬくしながらこの句を堪能する…なんていう贅沢な時間を過ごすことだってできるのです。(ここに限り「評者の読み方がキモ過ぎる…」みたいな批判的意見は受け付けません!)
寄り添いすぎないぎりぎりのところに在って、でも突き放しもしてこない。それが現代川柳の優しさだと思っています。
今回はそんな、評者が個人的にとってもとっても好きな句の、紹介を兼ねた評でした。みしまゆうさん、もっともっと読まれて欲しい(読まれなくちゃいけない)川柳人です!!!!!
以上でした!
例によって、まだ評の内容自体はご本人にも確認いただいていないのでドキドキです…。
あ、あとあと、みしまさんの小説も是非!よんでみてください!個人的には、掌編(?)の『冷蔵庫』がおすすめです。
作者の意図とは違うかも知れませんが、すこし「散文詩」に触れるような気持ちでよんでみても、気持ち良いと思います。
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今回扱った句に限らずですが、みしまゆうさんの川柳には、ある種の「私性」が描かれているように見えつつも、それが〈現代川柳的な距離〉によってぼやかされてゆくようなところに、独特な詩情があるように思います。大好きな川柳作家さんのひとりです。
長くなりました。では、今回はこれで!みなさん絶対、みしまゆうさんの川柳よんでくださいね!