川柳の作り方 / 木村半文銭 (大正十四年、弘文社)
川柳の作り方
木村半文銭著
第一篇 川柳とは何んなものか?
(一)川柳と前句附
川柳の作法を説く前に、川柳の起源を一と通りお話しすることも徒爾でないと思ひますから、極く簡單に其の歴史を抄術して置きます。川柳は以前前句附から獨立したものでありまして、元祿年間より寶暦、明和、安永、天明を通じて尤も汎く行れました平民の文學であります。前句附と申しますと、連歌から流れを汲んで發達したもので、一例をあげますと、
と言ふ風に題が課せられます。恰度和歌の下の句に對して上の句を附けたものと思へば、たいした間違ひはありません。此の課題に就て『味事であつた』といふ何かの内容をもつ前句を附けねばなりません。假に
と、附けたとしますと、那須與市が功名話しを捕えてきて、『味事なりけり』といふ題意をある點まで言外に現してゐる事と思ひます。斯ういふ風に一つの課題の下に、澤山の作家が想を練り、句意を求めて名案、名句を得やうと努力したのが前句附の全盛の因を爲したものであります。尤も前句の題にしても連歌と同じやうに、随分と難題が出たものであります。單に『味事だ』とか『賑やかだ』とかいふ平凡なものでなしに、『白くなりけり赤くなりけり』とか『外はまんまる中は眞四角』といふ風の餘程頭を捻つて考えねばならぬ附け方のものもあつたのであります。
此の前句附の選者に柄井八右衛門といふ人があつて、江戸の淺草邊に住み町名主を勤めてゐました。大體は當時の檀林風の俳諧に遊んだ人でありましたが、その頃大流行してゐた前句附の點者(選者)となりまして、頗る聲名を博しました。それで此の人の選んだ前句附の句集を萬句合せと稱しまして、一枚刷りのものを發表してゐました。今日でいふ機關誌とか專門雜誌とかいふ前提であります。この一枚刷りの句集を曆刷りと申しまして川柳の史的研究上に大變な權威をもつて居りますが、不幸にして斯の種のものは一枚刷りといふ反古のやうな性質上、保存の方法が閑却されてゐましたから、その多くを秘蔵する人は稀でありまして、漸やく東京の岡田三面子博士の手で、愛蔵せらるゝのみで、大多数は散逸し、其影を沒して了つたのは、尤も遺憾なことであります。
(二)川柳の獨立
柄井八右衛門は其の筆名(雅號)を川柳と申しました。それで前句附から川柳が何うして獨立したかと申しますと恰度その頃同じ發達をしてゐました俳諧が、その發句のみを獨立させて專ら平易に趣味三昧にはいることができたのと同じやうに、川柳も亦獨立の機運は到来したのであります。ですから一面から見ますと川柳は、俳句と共に其の發生の動機、變遷、興亡を等しくしてゐると見做れてゐるのであります。これは俳句にしても川柳にしても其の母胎を俳諧及び連歌に承継せられてゐる關係からで、謂はば同じ血縁であり系統をもつてゐるのであります。其等しく平民文學であり、五七五の十七音詩であるところを見ても、直ぐにそれと首肯ができ得ると思ひます。ただ俳句は自然を對象として進み、川柳は人間を對象として進んできたので、一つは自然詩を形成し、一つは人間詩、社會詩を構成したのであります。
さて何うして『川柳』の名稱が獨立したかと申しますと、これは前にも申しました通り柄井八右衛門の筆名でありましたのを、同選者の偉大な人望、選者としての尊敬、追慕といふ意味で、前句附より獨立したものを斯く名稱したのであります。それは彼の萬句合の曆刷りの中から、名玉を拾ひ出して『誹風柳樽』を編著した呉陵軒可有が、川柳翁の讃美者であつて、柳翁とか川叟とか尊稱して、前句附の選者の神様と崇拜したから、遂に其の獨立した前句附に、いつとはなしに川柳翁の選をした句であるから、『川柳』であると一般に普及したのであります。芭蕉翁の偉大さであつても、俳句を芭蕉と名稱することができなかつたのに比較して、川柳の名を冠したのは聊か柄井八右衛門の人格と聲望とを窺ふことができ得ると思ふのであります。よし俳句は芭蕉の獨創でなく、川柳は柄井八右衛門が前句附の人氣の中心點をひつとらまえて、當時の江戸の時流に媚びたにしても、その名稱の今日まで残ることは、一つの藝術を生みだした功績と見なければなりません。
それで、今日一般の川柳家が、古川柳の研究に至寶と仰ぎますのは、この呉陵軒可有『御了簡乞ふの意』の萬句合より選び出した『誹風柳樽』を指すのであります。『柳樽』の名稱に就いては、つまり川柳の『柳』を拜借し、柳樽の芽出度い名に因んで『この中にうまいものがあります』の寓意をひそめたもので、謂はば惡い洒落とも見られます。この柳樽は川柳の作り亦は研究する者の寶典であることは申すまでもありいませんし、殊に初代川柳の在世當時の句集即ち柳樽二十四編までは非常に珍重せられてゐるのであります。其の以後も二代三代四代五代と、随分柳樽の數は澤山繼續してはゐますが、大體に於て初代川柳程の選句眼に乏しかつたのか、可有の如き選句眼を有するものが無くなつたのか、自然に句品も下劣になり、作品の價値も遙かに劣つたものが殖えて居ります。だから若し古川柳を研究するなれば、元祿を振り出しに、寶暦、明和、安永、天明邊りまでが尤も其の作品に價値のある時代で、降《くだ》つて化政、天保となると全く堕落して了つて、所謂俳句の月並と軌を同じふして、遂に天保調といふ一種忌むべき傾向に陷つたのであります。それ以来は明治初年より同三十四五年迄は、全く川柳の名稱を附した闇黑時代とも見るべきで、これを一般に狂句時代と稱えて居ります。
(三)川柳と狂句
今日でこそ、川柳も藝術であり、詩であると申して居りますが、事實川柳は詩であるか藝術であるかと、その本質論から古川柳即ち柳樽を分析解剖してみますと、二様の見解に岐れますと思ひます。これは古川柳の多くが藝術の本質からは、これを詩として推賞することの遺憾な點が多のは、その餘りに通俗であり、卑猥であり、露骨であるからでありまして、これは當時の輕文學、軟文學の影響を享けた江戸の市民に祟り、言葉を換て申しますと、當然の反映であると見做さなければなりません。併し古川柳の中には絶對に詩美に觸れてゐる句がないかと申しますと、なかなか澤山含まれてゐるのでおります。今日の進んだ藝術の鑑賞眼を以てしましても、立派に生命のある作品も含まれてゐるのであります。ただこれが、凡俗の句に比較して稀少であることは否むわけには行かないのです。と言つて古川柳は全部通俗平凡、藝術上の價値がないと一と括りにして棄てることは無論それは出来ないのであります。だから古川柳の中には、この玉石が二様に混入せられてゐることを忘れることはできないのであります。
それに川柳を一般の社會人から卑しく見られて了つた、少なくとも川柳は家庭に入れる讀みものでなく、士君子の口にのぼすべきものでないと、極端な排斥と攻擊を蒙りましたのは、一つは狂句といふ川柳と似て非なるものゝ罪であります。何故狂句が川柳のほんとの皮肉とか滑稽とかを、社會に誤り傳えたかと言ひますと、これには狂句を生み出した當時の民情と其の人達の學問の程度などが因をなしてゐるやうであります元來川柳は檀林の俳諧から母胎をかりてゐます關係上、その作品を概括した上に『滑稽』の意味が多くとり入れられてあるのは當然であります。それに當時の民衆が徳川の基礎も固まつた太平氣分と、初めて平民として文學を弄ぶことができた悦びとで、所謂上下擧つて元祿時代の絢爛極りなき享楽的風潮を助成したことの一反映であることは、古川柳を次第に讀んで行けば明確にそれらの事實を發見することができます。
この時代の風潮に乗つた川柳が、滑稽も次第に高調?せられて、とうとう自然の滑稽味より、不自然の滑稽味を強ひることになりましたが、これを俗に『くすぐり』と申しまして、恰度腋の下に手を入れて『これでも可笑しくないか、これでも笑はないか』と擽つてゐるのと同じやうに、だんだん惡化したのであります。斯くいふ點から遂に『狂句』といふ何んでもないことを面白がらせたり、つまらぬことに理屈をつけてみたり、大袈裟なことや、淫猥なことを主題として作る傾向を生じたのであります。今日から見ますと一見して川柳と狂句との差違は鑑別はできますが、初心の間は何うしても狂句の方に興味をもち易いものであります。この點は作法の時に十分に説く考えでありますが、このところでは、川柳と稱してゐても、全く狂句の内容を含んでゐるものもあることを御記憶が願ひたいと思ひます。それで狂句とはどんなものかといふ事を二三の例句で説明を加えて置きます。
これらは先ず狂句の所謂理屈くさい體を借りたものであります。箱入娘を大切にしすぎて、可惜の娘盛りを戀病ひか、癆咳かで亡ふて、とうとう棺桶に入れて了つたといふ句意でありますが、これは『箱入れ』と『桶へ入れ』との文字の結びつけに興味をもつたもので、どちらかと言へば川柳としての一句の内容よりは、その内容を外にして文字の遊戯を試みたものとして見ても差支えないもので、結果に於ては『ハハン成る程然うであつたか』と一笑に終るものであります。
次の句にしても、緣遠い娘のことを諷刺したもので、柳は娘時代の細腰を意味し、臼は其の臀部の發達を形容したのであります。斯うした作品は、初めに讀んで一寸解し兼るが、其の内容の説明を聞かされて、『成る程』と笑はせられるもので、この種の狂句の型は、多くの共鳴者を素人の中にもつて居ります。今日の新聞紙上や、雜誌の中で、一と廉の政治家とか學者とかが其の所論の説明や何かに引用する川柳は、多くこの種の狂句であつて、川柳のほんとの良い意味の皮肉味や滑稽味のあるものを、引用することは稀であります。これは狂句を格言や譬へや諺と一緒に用ひるからでありまして、社會人も却つてそれらの引用せられた狂句に依つて、より多くの皮肉味とか痛快味を貪つてゐますが、川柳の本統の研究家、作家側からは有難迷惑な次第であろうと思ひます。
これらは別に説明しなくとも、その一句一句の圏點に就て、前の娘の句と比較研究すれば狂句の理屈味が判然と御了解にならうと思ひます。其の他は作法の各項に詳述することといたします。
(四)川柳の價値
川柳は、柄井八右衛門を祖とした一短詩形であることは、前にも述べましたが、將して川柳は他の文學や詩歌、俳句に比べて、どの點が劣つて、どの點が優れてゐるのかといふことをも一と通りは記憶して置きたいと思ひます。これはどの文學にしても、どの詩歌にしても、その藝術上の本質的普遍性には何の相違もありませんが、それぞれの詩歌には、詩歌それ自体の特種性に富んでゐることは當然であります。故にその特種性を比較研究すれば、みな一長一短があつて、その永い間の歴史的背景をもつて、容易にこれが等差を價値的に加えることはできないと思ひます。たゞ其の間にあつて、相互の興亡變遷がありまして、もてはやされる黄金時代や、閑却されて顧みられぬ失望時代もあるのみで、その本質的な價値上には、別にとりたてて區別をこしらえ、優劣を批判決定することはできません。要は時代人にうけいれられるか、享け入れられないかの二途であるのみであります。流行るか流行らないかの別れ目であつて、流行つたと言つても直ちに其の價値が永遠の生命のあるものである即斷はできませんし、亦流行らないにしても、その作品が藝術上の價値が零であると斷定することは出來ないのと同じことであります。俳句にしましても、子規の全盛時代には蕪村一派の天明調を崇仰しまして、ほんとの芭蕉を未だ發見することができなかつたのであります。それが一朝芭蕉の俳境、自然に透徹したその心境を發見して遽かに蕪村の所謂寫生より、芭蕉の自然讃美に發足したのであります。これらの實例は、其の作家の歿後の興廢でありますが、これを作家の生きてゐた時代に考えてみましても、時流に歡迎せられないものとの二様が生じます。
斯ういふ事は餘り川柳の價値上に何の約束も關係もないやうに思へますが實は川柳も此の不遇に依つて今日まで、凡ゆる藝術の下積になつてゐたので甚だしいに至つては、都々逸や冠句と一緒にとり扱はれてきたのであります。これは一時、初代川柳といふ傑物があつて、統括してゐた時代は全く其の黄金時代であつたのでありますが、だんだんと二代三代と經過して行くうちに遂に惰力的な歩み方をしたものでありますから、當然その作品は下劣で拙悪なものばかりが集り、點者も點者としての權威がなくなり、單に川柳の第何代目の宗匠であるといふ風の形式だけの威嚴を保つてゐるばかりで、その肝腎の選句の上に於ては凡庸の徒が多く繼承したものですから、どうしても威多くの作品をのこしてゐるといふだけであります。併し、眞に自然に生まれて來る可笑しみといふものが表現し得られたならば、ユーモアに缼けてゐる吾國の詩歌の中に光明を放つことは論を俟ちません、だがなかなか斯の自然のユーモアなるものは、鳥渡やそつとでは作り得られるものではないのです。求めても作り得られないのが眞の滑稽であつて、求めずとも自然に人の頤を解かしめるものが、滑稽としての上乗であります。それで川柳を作る上に於て、可笑しみなるものは他の穿ち、輕味と共に三大要素として重寶がるのであります。今古川柳に依つて何ういふ風に可笑しみ即ち滑稽感を表現してゐるかを分解して、作句の上の參考にしてみやうと思ひます。
假に、眼を瞑つてぢつと此の場の光景を心に描いてみることです。まだ嫁に來て間のない羞耻心と、それらにからみつく『灸』といふ一種嫁とは正反對なものを對象として、ありありとある滑稽味を捕えてゐることを發見するでしやう。嫁の羞かしい白い肌、フワフワと煙の出る灸、しかも其の座の姑や聟を連想してみると、猶更一種の輕《かる》い可笑しみに、誰れもがまづ、くすくすと笑はされます。それに『もういくつだへいくつだへ』の、灸の數をかぞへて熱さに美しい眉をひそめる動作までが、くつきりと浮み出してきます。これが同じことでも『婆の灸』とすると『もういくつだへいくつだへ』の、熱さに眉を寄せる動作が利いてまゐりません。これは婆アといふのが既に灸點と共に餘り共通がしすぎるからであります。だから滑稽なるものは、對象の矛盾といふ點に生れてきます。即ち不自然のやうで自然に、自然のやうで不自然に、何にか矛盾が伴ふてゐるものと思つても良いわけです。この場合の婆アの句にしてみますと『もういくつだべいくつだべ』と訊ねると、後ろから一つ、ぐわーんと撲つてゞもやりたいやうな氣になります。これは婆アそのものに、羞耻心とか情合ひとか白い肌とかに缼けてゐるのに起因するからです。
風が眞向ふから吹いてゐる、通りかゝつた嫁、裾の方から飜るのを、何度も何度も合せてみても、亦しても風に吹き捲くられてゐる──といふ動作がハツキリと滑稽味をもたらします。この場合の嫁も、又必ず嫁であつてこそ、斯く情趣に伴ふ滑稽味が含まれてゐるのでありまして、これを前句のやうに婆アに作り換えてみると、向ひ風の方で敬遠して吹き曲つて行くだらうと思ひます。
口に袖をあてゝ笑ふ姿を、斯ういふ風に表現すると、全く滑稽化して了ひます。同じことでも、これを
袖に口あてゝ花嫁笑ふなり
としますと、それには相違がないのでありますが、些つとも滑稽感が湧いてきません。これは唯、それを正直に寫したまでゝあつて、作者が今一つ、表現する上へ不注意であり、拙劣であるからであります。これを要するに句材そのものには滑稽味も何もありませんが、作家の表現法の旨さで、滑稽化することができるのであります。併し、これも程度問題でありまして、今一歩外すと眞の滑稽感より、俗惡な擽りに陥るものであります。例へば、
體が保たれなくなると、作句者側に媚を賣り、阿諛するやうになつて、とうとう堕落の淵へ、自分が勝手に落ち込んで行つたものであります。
だから當時の川柳の宗匠側と作句者側即ちお連中とはつまらぬ因縁や情實が生じまして其の作句の目的物たる賞品を覘ふといふ、卑しい慾氣のみが發達して、風雅とか風流とか一種社會に超越した趣味三昧から、だんだんと遠ざかつて行つたのであります。遂には三笠附といふ、全くの博奕である一體まで成化して、時の奉行から斷然興行の禁止を喰ふところまで、腐り切つてゐたのです。だがその反面には、賞品を競争的に奪はうとする、民衆の熱烈な運動は、よし其の行爲や意識の上に、さもしい汚點があつたにもせよ、熱狂して吾れ一に阿賭物を争ふた勢ひの恐ろしかつたことは蓋し想像には難くありません。だから腐れ切つて堕落をしやう、堕落をしやうとしてゐた川柳の内容の大勢が、潮《うしほ》のやうに狂句化して行つたのも亦當然であります。若し此の當時に偉大なる平民詩人が現れて、川柳の點者となつてゐたならば、川柳はもつと早く社會人の迷妄を解き、誤解を醒まし、立派に民衆詩として誇り得る基礎を築いたことであらうと思ひますが、惜しい哉、當時の點者には其の理想も、希望もなく、一般の民衆と共に相携えて、|堕落の泥の中に陥ち込んだのは、返す返すも残念であります。
それで川柳は、どういふ點が他の詩歌、俳諧に比して優れて居り、特種性をもつてゐるのかと申しますと、句材即ち川柳として《うた》ふとする|材料が凡ゆる事象に行き渡つてゐますのと、其の表現法が雅俗いづれの言葉に依つても爲し得られる點であります。これを約言しますと、川柳は全く自由詩でありまして、俳句の如く季節〈季節》や|切れ字の約束もなく、扱ふ文字が歌らしいものを必要とするやうな限定はなく、至つて自由でどんな材料を、どんな文字で現してもよいのであります。ただそれが自由でありますが、川柳としての作家側の内省を必要とするだけで、それは餘りに自由と放縦を履き違えてはならないからであります。斯ういふ意味から見た川柳は自由詩であり、平民詩であり、一般民衆詩としての獨自境をもつてゐるのであります。
も一つ川柳の民衆詩として誇り得ることは吾日本の民衆が、眞に文學をたのしんだ最初の詩であることです、尤も和歌にしても、所謂當時の特権階級から、地下即ち民衆の手に下つて居り、俳句も亦一般の町民にまで普及はいたして居りましたが、和歌はどうしても一部の文學者方面に偏傾し、俳句は其の俳境とか趣味性とかいふものから、眞に當時の下層民にまで、これを鑑賞せしめるところまでは融通が利かなかつたのであります。その點では川柳がよし後世に於て床屋文學の名稱を附せられましたにしても、眞の意味の民衆が、共に詩をたのしんだことは、これを以つて嚆矢とするのであります。だから川柳は他の何ものゝ詩歌よりも、一層深く吾國民の全體と握手をしてゐたのであります。
第二篇 古川柳は何ういふ風に咏まれて居るか?
(一)可笑しみといふこと(滑稿とクスグリ)
川柳が全體感の上に滑稽味の含まれてゐることは前述いたしましたが、それでは川柳は滑稽なことを咏むのを第一義とするかと申しますと、決してそれに限定せられるものではありません。ただ古川柳は、さういふ畑により
如何にも辛辣に皮肉に、持參金の不緻縹な嫁を諷刺はしてゐますが、たゞ諷刺得て妙といふばかりで、反面には滑稽を裏切る反感がこみ上げてきます。これらは決して上乗のユーモアでなく、寧ろ惡感を催ふす『くすぐり』であります。つまり腋の下を擽られるのに程度を超えると、腹の立つほど苦痛が伴ふのと同じ意味であります。
これらの句を讀んでゐますと、その作品の上手下手は別として、どこかに滑稽味の湧き上ることに氣注きます。張りものをするのに、風と言はずに、『へんぽんとして』と其の光景を寫し出してゐるところ、嫁が眉毛を片一方落して、聟かなんぞに覗かれて手でふさいでゐる情態、鰒も喰ひますといふ非凡な嫁、兎角内氣てある嫁が、生酔の得手勝手な話しぶりを臺所から笑つてゐる容姿、馬のうしろを通る恐わ恐わの嫁、羞かしいのと遠慮とで湯づけの音も兎角小さくするところなぞ、それぞれ異つた場合の可笑しさを隠したり、現はしたりしてゐます。かういふところが川柳としての滑稽味の特徴であります。併し、冷静に考えますと、これらの句の中にも、何んとなしに拵さえたらしい滑稽味が餘儀なくされてゐます。それはある可笑しみのある事件とか動作とかを發見した作者の觀察眼も凡ではありませんし、それに平凡な事象でも、これを滑稽化さしめた作者の手腕も認めなければなりませんが、それだけに、ほんとの滑稽、自然の可笑しみを現はす上には、缼點があります。即ち多少の無理が生じるのであります。例えば、張りものゝ嫁に對して、『へんぽん』とする風を連想せしめた表現法は、たしかに巧みではありますが、その『へんぽん』たる表現法には多少誇張しすぎた嫌ひがないでもありません。詩は絶對に誇張して惡いことはありませんが、これが程度を越えると無理を生みます。だから眞の滑稽は、決して誇張させない、わざとらしからざる眞面目さが嚴肅に存してゐなければなりません。これは却却大變に六ケしいもので、ユーモアを誇る外國の文學や詩歌の中にも、さうザラには發見るものではないのです。況して十七字の短詩の中にこの眞面目な滑稽味を含畜することは、言ふべく易くして、實に至難な事業であると申さねばなりません。
この句は表現法としては、まことに平凡なもので、何らの技巧も認められませんが、併し斯の無技巧の技巧の中に含まれてゐる、眞面目なる滑稽感を忘却してはならないと思ひます。全體の感じから、可笑しさが押さへても、制さへても溢れてくるのを認め得られます。これらの句は、長湯といふ觀念と、それから『忘れた時分』といふ如何にもノンビリとした氣持の中から、ユーモアが流れてくるのでありまして、同じ湯殿の句でも
は、その孕んでゐる有様を巧みに描き出してはゐますが、どこかに『わざとらしさ』の影がつき纏つてゐることを否むわけには行かないと思ひます。勿論これは句の善惡とか高下を別にしてのお話しです。
これを要しまするに、眞の滑稽には眞面目さがなければならないことゝ、滑稽の中から滲み出す涙を伴ふ程度にならなければ、ユーモアの川柳として誇ることができません。單に笑はすだけのものならば、アハハゝゝゝかオホホゝゝゝで仕舞ひになります。何のユーモアとしての價値をつけることはできないのであります。
(二)穿ちといふこと(皮肉と理屈)
穿ちとは、ものを皮肉に見たり、言ひ現はしたりすることで、これを社會の上で見ますと、對象物とかある事件をば、ありのまゝに正直に見ずに、その事件とか對象物の中から、裏面なり逆意なりに扱ふて、所謂辛辣味を加えることであります。だから穿ちといふことは、相手方にドキンと強く胸を射ることで皮肉であればあるほど、その價値は上乗であります、それだけに相手方の憎惡を招くことは已むを得ません。
古川柳の發達のあとをみますと、殆ど其の全部が此の穿ちの氣分を含んでゐるとみてもよいのであります。よく世間の人達が、川柳ほど皮肉なものはない、といふことは即ち穿ちが十分に含まれてゐることを裏書きするものであります。まことに川柳の發生した要素は斯の皮肉味、辛辣味によつて價値づけられます。彼の川柳を稱して寸鐡殺人的とか警句とか申すのも、この意味からであります。それだけ川柳は、對社會に向かつて皮肉と嘲笑を浴せかけてゐますから、どちらかといへば川柳の敵を多く作つてゐる次第でありましやう。若し俳句の藝術的境地が自然そのもの、鑑賞にありとすれば、川柳は對社會への皮肉と嘲笑と冷罵との反逆兒であるともみられます。だから川柳はその全體感の上に滑稽分子を含んでゐると共に、その一句一句には大なり小なりの皮肉分子が含んでゐるとみてもよからうと思ひます。これを要するに皮肉と滑稽感とが相脈絡して、川柳を組成してゐるものと見て差支えがないのであります。それほどに川柳の重要なる穿ちとは、どういふ風に作られてるものか、これを以下例に依つて古川柳に就て分解してみませう。
この句でみますと、良い女即ちいゝ緻縹の女に對して、女房が『どこかに疵をつけた』といふ句意ですが、この良い女の中から、どこかに惡い點を發見する女房の心もちを穿つたものであります。どこかに疵を發見しなければ納まらぬ女房の自尊心を捕えたもので、句全體に穿つた氣持ちが現れてゐます。
稍々狂句じみた句でありますが、これなぞも、それとはなしに炭團屋の女房の顔の黑さを皮肉つた、もので、若し、ほんとに白ければ何の變哲もない句となります。黑いところがあればこそ、聊か白く見えたといふ穿つた言葉となります。だからこれらは黑に對する白の對象であります。
此の句から享ける穿つた分子は、女房自身の虎の子を稱して『わが金』と斷つてあるところに含まれてゐるのです。これも同じく性質な虎の子でありますが『虎の子』として了へば、さうたいして皮肉味がなく、むしろ平凡に近いものになりますが『わが金』と一本釘を利かしたところに、穿つた句としての價値があります。だから穿つた句は、必ず《かんさつ》の|鋭敏と、表現の寄警とを必要とするのであります。
この句も、中七の『叱られぶり』が利いてゐるのです。若し此の中七が他の平凡な言ひ現はし方でありますと『美しさ』と前提した表現法は滅茶々々になります。
夫婦喧嘩をしたあとで、まあまあ機嫌を直しておくれといつた調子のところ『もとの女房の聲』のやさしさに返つたのであります。この『もとの女房の聲』で、今までの大嵐のやうな女房の聲を連想させます。それが即ち穿つてゐるからであります。これを
としますと些つとも迫るものがありません。つまり普通のことを普通の文字で埋《うづ》めてしまひますから、平凡な句となつて了ふのであります。事件は平凡でも、これを生かすところに、手腕が必要であります。最近の川柳界の多くは、この心得に缼けてゐて『やさしい聲になり』ばかりに堕して居ります。表現法の寄警は川柳の死活問題を提示してゐるのであります。
惚れてゐるだけが女房の弱みなり
この句も、女房の弱點をとらへるに『惚れてゐる』ことによつて穿つてゐます。良人の放埒を、巧みに言外に隠してありますが、十分にそれと悟らすだけの用意は、上五の『惚れてゐる』に利かしてあります。だから別れ話しがもち上つても、やはり女房の、口ではそれと強さうに出かけても、内心では惚れてゐる弱味に、しみじみと泣ゐてくる連想も起きてまゐります。
前句に連關してゐる句で、女房のさすがに女性の弱さを現はしたものであります『腹の立つ』の上五をよくよく玩味すべきでありましやう。
(以下、後日追記予定。著作権の切れていない、あるいは切れているか分からない作者の句は写さないつもりです。その場合は、作者名及び著作権保護期間中or没年不明、と明記するつもり。)
(三)輕味といふこと(洒脱と平淡)
(四)三要素に關して
(五)眞實味といふこと
(六)寫實味といふこと
俳句に寫生があるが如く、川柳にも、川柳獨特の寫生があります、私は假にこれを寫實味と稱えて置きます。然らば川柳の寫實味とはどんなものであるか、一言にして説明すれば、對象物の焦點を尤もよく描寫するものであつて、その作品は社會の凡ゆるものゝ縮圖として、生命を描き出してゐます。時には俳句と同じ様に忠實な平面描寫もありますが、
(七)超越味といふこと
(八)感覺味といふこと
第三篇 川柳の形式(聲調と用語)
(一)簡潔であること
(二)説明體
(三)『居』と『來』
(四)口語體
(五)洒落體
(六)『也』と『なり』
(七)考へさせる句
(八)形容體
(九)省略法
(十)上達方
第四篇 川柳の作り方
(一)川柳味と天文
(二)寫生吟
⬜︎著者より諸子へ
終りに臨んで一言附加して置きます。最初は本著の依頼を受けた時、もつと作り方に就て詳述したい希望で、いろいろの項目を分類してゐましたが、さて執筆してみると思ふやうには書けませんし、私自身で判つてゐて、皆さんにお判りにならない點も多々あらうと思ひます。恐れるのはそれであります。併し、紙數に制限がありますので、もう此の以上書くことは許されません。なんだか龍頭蛇尾に終つたやうに思ひます。これらの點は著者としてお詫びいたします。それで諸子が深く川柳を專問的に研究してみやうとお考へでしたら專問書による方が良いと思ひます。まづ大阪からは『南區玉屋町一番地番傘川柳社』から『番傘』が出てゐますし、『兵庫縣鳴尾村字寺の後の川柳雜誌社』からは『川柳雜誌』が發刊されてゐます。いづれも能く關西の句風を傳へてゐますが、初心の方には『川柳雜誌』の方が適當であらうと思ひます就て御覧になることをおすすめいたします。猶ほそれ以上の疑問や希望のあるお方は、直接著者宛てにお手紙をいただければ結構です。宛所は『大阪市外萩の茶屋六六五』です。
終りに、番傘社の人々に無斷で選句をした僭越をお詫びいたします、いづれ名玉を拾ひおとしたゞらうと思ひますが、時は酷暑、時日は僅に半月足らずで書き上げた仕事ですから、幾多の疎漏があるだらうと思ひます。それらもまづ職業的著述として大眼でみてゐたゞきたいと思ひます。いづれ、餘裕の出來た時は、もう一度嚴密に見直してみやうと思ひます。が、大抵は眼を行き届かして選句はしたつもりで居ります。
(以下、後日追記予定。著作権の切れていない、あるいは切れているか分からない作者の句は写さないつもりです。その場合は、作者名及び著作権保護期間中or没年不明、と明記するつもり。)