川柳の作り方 / 木村半文銭 (大正十四年、弘文社)

川柳の作り方


木村半文銭著


第一篇 川柳とは何んなものか?

(一)川柳と前句附

 川柳せんりう作法さくほうまへに、川柳せんりう起源きげんを一ととほりおはなしすることも徒爾とじでないとおもひますから、簡單かんたん歴史れきし抄術せうじゆつしてきます。川柳せんりう以前もと前句附まへくづけから獨立どくりつしたものでありまして、元祿年間げんろくねんかんより寶暦ほうれき明和めいわ安永あんえい天明てんめいつうじてもつとひろおこなはれました平民へいみん文學ぶんがくであります。前句附まへくづけまをしますと、連歌れんかからながれをんで發達はつたつしたもので、一れいをあげますと、

   味事みごとなりけり味事みごとなりけり

 とふうだいくわせられます。恰度てふど和歌わかしもたいしてかみけたものと思へば、たい●●した間違まちがひはありません。課題くわだいついて『味事みごとであつた』といふなにかの内容ないようをもつ前句まへくけねばなりません。かり

   要際かなめぎはのこしてさつとうみ

と、けたとしますと、那須與市なすのよいち功名話こうめうばなしをとらえてきて、『味事みごとなりけり』といふ題意だいいをあるてんまで言外げんがいあらはしてゐることおもひます。ういふふうに一つの課題くわだいもとに、澤山たくさん作家さくかおもひり、句意くいもとめて名案めいあん名句めいくやうと努力どりよくしたのが前句附まへくづけ全盛ぜんせいいんしたものであります。もつと前句まへくだいにしても連歌れんかおなじやうに、随分ずいぶん難題なんだいたものであります。たんに『味事みごとだ』とか『にぎやかだ』とかいふ平凡へいぼんなものでなしに、『しろくなりけりあかくなりけり』とか『そとはまんまる中はまつかく』といふふう餘程よほどあたまひねつてかんがえねばならぬかたのものもあつたのであります。
 前句附まへくづけ選者せんじや柄井からい右衛もんといふひとがあつて、江戸えど淺草邊あさくさへん町名主まちなぬしつとめてゐました。大體だいたい當時たうじ檀林風だんりんふう俳諧はいかいあそんだひとでありましたが、その頃大流行ころだいりうかうしてゐた前句附まへくづけ點者てんしや選者せんしや)となりまして、すこぶ聲名せいめいはくしました。それでひとえらんだ前句附まへくづけ句集くしふ萬句合まんくあはせとせうしまして、一まいりのものを發表はつべうしてゐました。今日こんにちでいふ機關誌きかんしとか專門雜誌せんもんざつしとかいふ前提ぜんていであります。この一枚刷まいずりの句集くしふこよみりともをしまして川柳せんりう史的してき研究上けんきうぜう大變たいへん權威けんいをもつてりますが、不幸ふこうにしてしゆのものは一枚刷まいずりといふ反古ほごのやうな性質上せいしつぜう保存ぼぞん方法ほうほふ閑却かんきやくされてゐましたから、そのおほくを秘蔵ひざうするひとまれでありまして、やうやく東京とうけう岡田おかだ面子博士めんしはかせで、愛蔵あいざうせらるゝのみで、大多数だいたすう散逸さんいつし、其影そのかげぼつしてしまつたのは、もつと遺憾いかんなことであります。

(二)川柳の獨立

 柄井からい右衛もん筆名ひつめい雅號ががう)を川柳せんりうまをしました。それで前句附まへくづけから川柳せんりううして獨立どくりつしたかとまをしますと恰度てうどその頃同ころおな發達はつたつをしてゐました俳諧はいかいが、その發句ほつくのみを獨立どくりつさせてもつば平易へいい趣味しゆみまいにはいることができたのとおなじやうに、川柳せんりうまた獨立どくりつ機運きうん到来たうらいしたのであります。ですから一めんからますと川柳せんりうは、俳句はいくとも發生はつせい動機どうき變遷へんせん興亡こうぼうひとしくしてゐると見做みなされてゐるのであります。これは俳句はいくにしても川柳せんりうにしても母胎ぼたい俳諧及はいかいおよ連歌れんか承継せうけいせられてゐる關係かんけいからで、はばおな血縁けつえんであり系統けいとうをもつてゐるのであります。其等そのひとしく平民文學へいみんぶんがくであり、五七五の十七音詩おんしであるところをても、ぐにそれと首肯しゆこうができるとおもひます。ただ俳句はいく自然しぜん對象たいせうとしてすゝみ、川柳せんりう人間にんげん對象たいせうとしてすゝんできたので、一つは自然詩しぜんし形成けいせいし、一つは人間詩にんげんし社會詩しゃかいし構成かうせいしたのであります。
 さてうして『川柳せんりう』の名稱めいせう獨立どくりつしたかとまをしますと、これはまへにもまをしましたとほ柄井からい右衛もん筆名ひつめいでありましたのを、同選者どうせんしや偉大いだい人望じんぼう選者せんしやとしての尊敬そんけい追慕ついぼといふ意味いみで、前句附まへくづけより獨立どくりつしたものを名稱めいせうしたのであります。それは萬句合まんくあはせ曆刷こよみずりのなかから、名玉めいぎょくひろして『誹風柳樽はいふうやなぎだる』を編著へんちよした呉陵軒可有ごれうけんかうが、川柳せんりうわう讃美者さんびしやであつて、柳翁りうわうとか川叟せんそうとか尊稱そんせうして、前句附まへくづけ選者せんしや神様かみさま崇拜すうはいしたから、つひ獨立どくりつした前句附まへくづけに、いつとはなしに川柳翁せんりうわうせんをしたであるから、『川柳せんりう』であると一ぱん普及ふきうしたのであります。芭蕉翁ばせをわう偉大ゐだいさであつても、俳句はいく芭蕉ばせを名稱めいせうすることができなかつたのに比較ひかくして、川柳せんりうかんしたのはいさゝ柄井からい右衛もん人格じんかく聲望せいぼうとをうかがふことができるとおもふのであります。よし俳句はいく芭蕉ばせを獨創どくさうでなく、川柳せんりう柄井からい右衛もん前句附まへくづけ人氣にんき中心點ちうしんてんをひつとらまえて、當時たうじ江戸えど時流じりうびたにしても、その名稱めいせう今日こんにちまでのこることは、一つの藝術げいじゆつみだした功績こうせきなければなりません。
 それで、今日こんにちぱん川柳家せんりうかが、古川柳こせんりう研究けんきう至寶しほうあふぎますのは、この呉陵軒可有ごれうけんかう御了簡乞ごれうけんこふの』の萬句合まんくあはせよりえらした『誹風柳樽はいふうやなぎだる』をゆびさすのであります。『柳樽やなぎだる』の名稱めいせういては、つまり川柳せんりうの『りう』を拜借はいしやくし、柳樽やなぎだる芽出度めでたちなんで『このなかにうまいものがあります』の寓意ぐういをひそめたもので、はばわる洒落しやれともられます。この柳樽やなぎだる川柳せんりうつくまた研究けんきうするもの寶典ほうてんであることはまをすまでもありいませんし、こと初代川柳しよだいせんりう在世當時ざいせいとうじ句集即くしふすなわ柳樽やなぎだる二十四へんまでは非常ひぜう珍重ちんてうせられてゐるのであります。以後いごも二だいだいだいだいと、随分ずゐぶん柳樽やなぎだるすう澤山繼續たくさんけいぞくしてはゐますが、大體だいたいおい初代しよだい川柳程せんりうほど選句せんくがんとぼしかつたのか、可有かうごと選句せんくがんいうするものがくなつたのか、自然しぜん句品くひん下劣げれつになり、作品さくひん價値かちはるかにおとつたものがえてります。だから古川柳こせんりう研究けんきうするなれば、元祿げんろくしに、寶暦ほうれき明和めいわ安永あんえい天明てんめいあたりまでがもつと作品さくひん價値かちのある時代じだいで、降《くだ》つて化政くわせい天保てんぽうとなるとまつた堕落だらくしてしまつて、所謂いはゆる俳句はいく月並つきなみおなじふして、つひ天保調てんぽちようといふ一種忌しゆいむべき傾向けいこうおちいつたのであります。それ以来いらい明治初年めいじしよねんよりどう三十四五年迄ねんまでは、まつた川柳せんりう名稱めいせうした闇黑時代あんこくじだいともるべきで、これを一ぱん狂句時代けうくじだいとなえてります。

(三)川柳と狂句

 今日こんにちでこそ、川柳せんりう藝術げいじゆつであり、であるともをしてりますが、事實じじつ川柳せんりうであるか藝術げいじゆつであるかと、その本質論ほんしつろんから古川柳こせんりうすなは柳樽やなぎだる分析解剖ぶんせきかいぼうしてみますと、二やう見解けんかいわかれますとおもひます。これは古川柳こせんりうおほくが藝術げいじゆつ本質ほんしつからは、これをとして推賞すいせうすることの遺憾ゐかんてんおほいのは、そのあまりに通俗つうぞくであり、卑猥ひわいであり、露骨ろこつであるからでありまして、これは當時たうじ輕文學けいぶんがく軟文學なんぶんがく影響えいけうけた江戸えど市民しみんたゝり、言葉ことばかえもをしますと、當然たうぜん反映はんえいであると見做みなさなければなりません。しか古川柳こせんりうなかには絶對ぜつたい詩美しびれてゐるがないかともをしますと、なかなか澤山含たくさんふくまれてゐるのでおります。今日こんにちすゝんだ藝術げいじゆつ鑑賞眼かんせうがんもつてしましても、立派りつぱ生命せいめいのある作品さくひんふくまれてゐるのであります。ただこれが、凡俗ぼんぞく比較ひかくして稀少きせうであることはいなむわけにはかないのです。とつて古川柳こせんりう全部ぜんぶ通俗平凡つうぞくへいぼん藝術上げいじゆつぜう價値かちがないと一とくゝりにしててることは無論むろんそれは出来できないのであります。だから古川柳こせんりうなかには、この玉石ぎよくせきが二やう混入こんにうせられてゐることをわすれることはできないのであります。
 それに川柳せんりうを一ぱん社會人しやかいじんからいやしくられてしまつた、すくなくとも川柳せんりう家庭かていれるみものでなく、士君子しくんしくちにのぼすべきものでないと、極端きよくたん排斥はいせき攻擊こうげきかふむりましたのは、一つは狂句けうくといふ川柳せんりうなるものゝつみであります。何故なぜ狂句けうく川柳せんりうのほんとの皮肉ひにくとか滑稽こつけいとかを、社會しやかいあやまつたえたかとひますと、これには狂句けうくした當時たうじ民情みんぜう人達ひとたち學問がくもん程度ていどなどがいんをなしてゐるやうであります元來川柳がんらいせんりう檀林だんりん俳諧はいかいから母胎ぼたいをかりてゐます關係上かんけいぜう、その作品さくひん概括がいかつしたうへに『滑稽こつけい』の意味いみおほくとりれられてあるのは當然たうぜんであります。それに當時たうじ民衆みんしう徳川とくがわ基礎きそかたまつた太平氣分たいへいきぶんと、はじめて平民へいみんとして文學ぶんがくもてあそぶことができたよろこびとで、所謂いはゆる上下ぜうかこぞつて元祿時代げんろくじだい絢爛けんらんきわまりなき享楽的風潮けうらくてきふうてう助成じよせいしたことの一反映はんえいであることは、古川柳こせんりう次第しだいんでけば明確めいかくにそれらの事實じじつ發見はつけんすることができます。
 この時代じだい風潮ふうてうつた川柳せんりうが、滑稽こつけい次第しだい高調かうてう?せられて、とうとう自然しぜん滑稽味こつけいみより、不自然ふしぜん滑稽味こつけいみひることになりましたが、これをぞくに『くすぐり』ともをしまして、恰度てうどわきしたれて『これでも可笑おかしくないか、これでもわらはないか』とくすぐつてゐるのとおなじやうに、だんだん惡化あくくわしたのであります。くいふてんからつひに『狂句けうく』といふんでもないことを面白おもしろがらせたり、つまらぬことに理屈りくつをつけてみたり、大袈裟おほげさなことや、淫猥いんわいなことを主題しゆだいとしてつく傾向けいこうせうじたのであります。今日こんにちからますと一けんして川柳せんりう狂句けうくとの差違さい鑑別かんべつはできますが、初心しよしんあひだうしても狂句けうくほう興味けうみをもちやすいものであります。このてん作法さくほうときに十ぶんかんがえでありますが、このところでは、川柳せんりうせうしてゐても、まつた狂句けうく内容ないようふくんでゐるものもあることを御記憶ごきおくねがひたいとおもひます。それで狂句けうくとはどんなものかといふことを二三の例句れいく説明せつめいくわえてきます。

   はこぎてむすめおけ
   むこえらびするうちやなぎうすになり

 これらは狂句けうく所謂いはゆる理屈りくつくさいたいりたものであります。箱入娘はこいりむすめ大切たいせつにしすぎて、可惜あたら娘盛むすめざかりを戀病こひやまひか、癆咳らうがいかでうしなふて、とうとう棺桶かんおけれてしまつたといふ句意くいでありますが、これは『箱入はこいれ』と『おけれ』との文字もんじむすびつけに興味けうみをもつたもので、どちらかとへば川柳せんりうとしての一内容ないようよりは、その内容ないようよそにして文字もんじ遊戯ゆうぎこころみたものとしてても差支さしつかえないもので、結果けつくわおいては『ハハンほどうであつたか』と一せふをはるものであります。
 つぎにしても、緣遠い娘のことを諷刺したもので、柳は娘時代の細腰を意味し、臼は其の臀部の發達を形容したのであります。うした作品さくひんは、初めにんで一寸解ちよつとかいかねるが、其の内容の説明を聞かされて、『ほど』とわらはせられるもので、このしゆ狂句けうくかたは、多くの共鳴者を素人の中にもつて居ります。今日こんにち新聞紙上しんぶんしぜうや、雜誌ざつしなかで、一とかど政治家せいぢかとか學者がくしやとかが其の所論の説明や何かに引用する川柳は、多くこの種の狂句であつて、川柳のほんとの良い意味の皮肉味や滑稽味のあるものを、引用することは稀であります。これは狂句を格言や譬へや諺と一緒に用ひるからでありまして、社會人も却つてそれらの引用せられた狂句に依つて、より多くの皮肉味とか痛快味を貪つてゐますが、川柳の本統ほんとうの研究家、作家側からは有難迷惑ありがためいわく次第しだいであろうとおもひます。

   よく結へば惡くいはるゝ●●●●●●●●●●後家ごけかみ
   身ぎれいな●●●●●後家ごけかへつてぼろ●●
   かみなりつる●●拍子へうし後家ごけ落ち●●

 これらは別に説明しなくとも、その一句一句の圏點けんてんに就て、前の娘の句と比較研究すれば狂句の理屈味が判然と御了解にならうと思ひます。其のは作法の各項に詳述することといたします。


(四)川柳の價値

 川柳せんりうは、柄井からい右衛もんとした一短詩たんしけいであることは、まへにもべましたが、はたして川柳は他の文學や詩歌しか、俳句に比べて、どの點が劣つて、どの點が優れてゐるのかといふことをも一と通りは記憶して置きたいと思ひます。これはどの文學にしても、どの詩歌にしても、その藝術上の本質的普遍性には何の相違もありませんが、それぞれの詩歌には、詩歌それ自体の特種性に富んでゐることは當然たうぜんであります。ゆゑにその特種性を比較研究すれば、みな一てうたんがあつて、そのながあひだ歴史的背景れきしてきはいけいをもつて、容易よういにこれが等差とうさ價値かちてきくわえることはできないとおもひます。たゞかんにあつて、相互そうご興亡變遷こうぼうへんせんがありまして、もてはやされる黄金時代わうごんじだいや、閑却かんきやくされてかへりみられぬ失望時代しつぼうじだいもあるのみで、その本質的ほんしつてき價値かちぜうには、べつにとりたてて區別くべつをこしらえ、優劣いうれつ批判ひはん決定けつていすることはできません。えう時代じだいじんにうけいれられるか、れられないかの二途であるのみであります。流行はやるか流行はやらないかのわかであつて、流行はやつたとつてもたゞちに價値かち永遠えいゑん生命せいめいのあるものである即斷そくだんはできませんし、また流行はやらないにしても、その作品さくひん藝術げいじゆつぜう價値かちぜろであると斷定だんていすることは出來できないのとおなじことであります。俳句はいくにしましても、子規しき全盛ぜんせい時代じだいには蕪村ぶそん一派の天明調を崇仰すうはいしまして、ほんとの芭蕉ばせをいま發見はつけんすることができなかつたのであります。それが一てふ芭蕉ばせを俳境はいけう自然しぜん透徹とうてつしたその心境を發見してにわかに蕪村ぶそん所謂寫生いはゆるしやせいより、芭蕉ばせをの自然讃美に發足したのであります。これらの實例じつれいは、其の作家の歿後ぼつご興廢こうはいでありますが、これを作家の生きてゐた時代に考えてみましても、時流に歡迎かんけいせられないものとの二やうせうじます。
 ういふことあま川柳せんりう價値かちぜうなん約束やくそく關係かんけいもないやうにおもへますがじつ川柳せんりう不遇ふぐうつて今日こんにちまで、あらゆる藝術げいじゆつ下積したづみになつてゐたのではなはだしいにいたつては、都々逸どゞいつ冠句かさつけと一しよにとりあつかはれてきたのであります。これは一初代しよだい川柳せんりうといふ傑物けつぶつがあつて、統括とうかつしてゐた時代じだいまつた黄金時代わうごんじだいであつたのでありますが、だんだんと二だいだい經過けいくわしてくうちにつひ惰力的だりよくてきあゆかたをしたものでありますから、當然たうぜんその作品さくひん下劣げれつ拙悪せつあくなものばかりがあつまり、點者てんしや點者てんしやとしての權威けんいがなくなり、たん川柳せんりう第何代目だいなんだいめ宗匠そうせうであるといふふう形式けいしきだけの威嚴いけんたもつてゐるばかりで、その肝腎かんぢん選句せんくうへおいては凡庸ぼんやうおほ繼承けいせうしたものですから、どうしてもおほくの作品さくひんをのこしてゐるといふだけであります。しかし、しん自然しぜんまれて可笑おかしみといふものが表現へうげんられたならば、ユーモアにけてゐる吾國わがくに詩歌しかなか光明こうめうはなつことはろんちません、だがなかなか自然しぜんのユーモアなるものは、鳥渡ちよつとそつと、、、ではつくられるものではないのです。もとめてもつくられないのがしん滑稽こつけいであつて、もとめずとも自然しぜんひとあごかしめるものが、滑稽こつけいとしての上乗ぜうぜうであります。それで川柳せんりうつくうへおいて、可笑おかしみなるものは穿うがち、輕味かるみともに三大要素だいえうそとして重寶てうほうがるのであります。いま古川柳こせんりうつてういふふう可笑おかしみすなは滑稽感こつけいかん表現へうげんしてゐるかを分解ぶんかいして、作句さくくうへ參考さんこうにしてみやうとおもひます。

   よめきうもういくつだへいくつだへ

 かりに、眼を瞑つてぢつと此の場の光景をこゝろえがいてみることです。まだよめのない羞耻心しうちしんと、それらにからみつく『きう』といふ一種嫁しゆよめとは正反對せいはんたいなものを對象たいせうとして、ありありとある滑稽こつけいとらえてゐることを發見はつけんするでしやう。よめはづかしいしろはだ、フワフワとけむりきう、しかもしうとめむこ連想れんさうしてみると、猶更なほさらしゆの輕《かる》い可笑おかしみに、れもがまづ、くすくすとわらはされます。それに『もういくつだへいくつだへ』の、きうかずをかぞへてあつさにうつくしいまゆをひそめる動作どうさまでが、くつきりとうかしてきます。これがおなじことでも『ばゞきう』とすると『もういくつだへいくつだへ』の、あつさにまゆせる動作どうさいてまゐりません。これはばゞアといふのがすで灸點きうてんともあま共通けうつうがしすぎるからであります。だから滑稽こつけいなるものは、對象たいせう矛盾むじゆんといふてんうまれてきます。すなは自然しぜんのやうで自然しぜんに、自然しぜんのやうで自然しぜんに、にか矛盾むじゆんともなふてゐるものとおもつてもいわけです。この場合ばあひばゞアのにしてみますと『もういくつだべいくつだべ』とたづねると、うしろから一つ、ぐわーんとなぐつてゞもやりたいやうなになります。これはばゞアそのものに、羞耻心しうちとか情合ぜうあひとかしろはだとかにけてゐるのに起因きいんするからです。

   むか風嫁合かぜよめあはせてもあはせても

 かぜ眞向まむかふからいてゐる、とほりかゝつたよめすそほうからひるがへるのを、何度なんど何度なんどあはせてみても、またしてもかぜくられてゐる──といふ動作どうさがハツキリと滑稽味こつけいみをもたらします。この場合ばあひよめも、またかならよめであつてこそ、情趣ぜうしゆともな滑稽味こつけいみふくまれてゐるのでありまして、これを前句ぜんくのやうにばゞアにつくえてみると、むかかぜほう敬遠けいゑんしてまがつてくだらうとおもひます。

   くちからなんぞるやうに嫁笑よめわら

 くちそでをあてゝわら姿すがたを、ういふふう表現へうけんすると、まつた滑稽化こつけいくわしてしまひます。おなじことでも、これを
   そでくちあてゝ花嫁笑はなよめわらふなり
としますと、それには相違さうゐがないのでありますが、つとも滑稽感こつけいかんいてきません。これはたゞ、それを正直せうぢきうつしたまでゝあつて、作者さくしやいま一つ、表現へうけんするうへ不注意ふちういであり、拙劣せつれつであるからであります。これをえうするに句材くざいそのものには滑稽味こつけいみなにもありませんが、作家さくか表現法へうけんほふうまさで、滑稽化こつけいくわすることができるのであります。しかし、これも程度問題ていどもんだいでありまして、いまはづすとしん滑稽感こつけいかんより、俗惡ぞくあくくすぐりにおちいるものであります。たとへば、

   持參金じさんきんよくよくればはなもあり
   持參金じさんきんをりふしはなめし

たいたもたれなくなると、作句者側に媚をり、阿諛あゆするやうになつて、とうとう堕落だらくの淵へ、自分じぶん勝手かつてんでつたものであります。
 だから當時たうじ川柳せんりう宗匠側そうせうがは作句者側即さくくしやがはすなはちお連中れんちうとはつまらぬ因縁いんねん情實ぜうじつせうじまして作句さくく目的物もくてきぶつたる賞品せうひんねらふといふ、いやしい慾氣よくけのみが發達して、風雅とか風流とか一しゆ社會しやかい超越てうえつした趣味しゆみまいから、だんだんととほざかつて行つたのであります。つひには三笠附かさつけといふ、まつたくの博奕はくちである一たいまで成化せいくわして、とき奉行ぷけうから斷然興行だんぜんこうけう禁止きんしふところまで、くさつてゐたのです。だがその反面はんめんには、賞品せうひん競争的けうさうてきうばはうとする、民衆みんしう熱烈ねつれつ運動うんどうは、よし行爲こうゐ意識いしきうへに、さもしい汚點があつたにもせよ、熱狂ねつけうしてれ一に阿賭物あとぶつあらそふたいきほひのおそろしかつたことはけだ想像さうざうにはかたくありません。だからくさつて堕落だらくをしやう、堕落だらくをしやうとしてゐた川柳せんりう内容ないよう大勢たいせいが、潮《うしほ》のやうに狂句けうくくわしてつたのも亦當然またたうぜんであります。當時たうじ偉大ゐだいなる平民へいみん詩人しじんあらはれて、川柳せんりう點者てんしやとなつてゐたならば、川柳せんりうはもつとはや社會人しやかいじん迷妄めいもうき、誤解を醒まし、立派に民衆詩として誇り得る基礎をきづいたことであらうとおもひますが、しいかな當時たうじ點者てんしやにはの理想も、希望もなく、一ぱんの民衆と共に相携あひたづさえて、|堕落だらくどろなかんだのは、かへがへすも残念ざんねんであります。
 それで川柳せんりうは、どういふてん詩歌しか俳諧はいかいしてすぐれてり、特種性とくしゆせいをもつてゐるのかとまをしますと、句材くざいすなは川柳せんりうとして《うた》ふとする|材料ざいれいあらゆる事象じせうに行き渡つてゐますのと、表現法へうけんほふ雅俗がぞくいづれの言葉ことばつてもられるてんであります。これを約言やくげんしますと、川柳せんりうまつた自由詩じいうしでありまして、俳句はいくごと季節〈季節》や|切約束やくそくもなく、あつか文字もんじうたらしいものを必要ひつやうとするやうな限定げんていはなく、いたつて自由じいうでどんな材料ざいれうを、どんな文字もんじあらはしてもよいのであります。ただそれが自由じいうでありますが、川柳せんりうとしての作家側さくかがは内省ないせう必要ひつやうとするだけで、それはあまりに自由じいう放縦ほうじうちがえてはならないからであります。ういふ意味いみから川柳せんりう自由詩じいうしであり、平民詩へいみんしであり、一般民衆詩ぱんみんしうしとしての獨自どくじけうをもつてゐるのであります。
 も一つ川柳せんりう民衆詩みんしうしとしてほこることはわが日本にほん民衆みんしうが、しん文學ぶんがくをたのしんだ最初さいしよであることです、もつと和歌わかにしても、所謂いはゆる當時たうじ特権階級とつけんかいきうから、地下ちかすなは民衆みんしうくだつてり、俳句はいくまたぱん町民てうみんにまで普及ふきうはいたしてりましたが、和歌わかはどうしても一文學者方面ぶんがくしやほうめん偏傾へんけいし、俳句はいくは其の俳境はいけうとか趣味しゆみせいとかいふものから、しん當時たうじ層民そうみんにまで、これを鑑賞かんせうせしめるところまでは融通ゆうづうかなかつたのであります。そのてんでは川柳せんりうがよし後世こうせいおい床屋とこや文學ぶんがく名稱めいせうせられましたにしても、しん意味いみ民衆みんしうが、ともをたのしんだことは、これをつて嚆矢かうしとするのであります。だから川柳せんりうなにものゝ詩歌しかよりも、一層深さうふか吾國民わがこくみん全體ぜんたい握手あくしゆをしてゐたのであります。


第二篇 古川柳は何ういふ風に咏まれて居るか?


(一)可笑しみといふこと(滑稿とクスグリ)

 川柳せんりう全體感ぜんたいかんうへ滑稽味こつけいみふくまれてゐることは前述ぜんじゆついたしましたが、それでは川柳せんりう滑稽こつけいなことをむのをだいとするかとまをしますと、けつしてそれに限定げんていせられるものではありません。ただ古川柳こせんりうは、さういふはたけにより

   持參金じさんきんよめなけなしのはなにかけ

 如何いかにも辛辣しんらつ皮肉ひにくに、持參金じさんきんれうよめ諷刺ふうしはしてゐますが、たゞ諷刺ふうして妙といふばかりで、反面には滑稽を裏切る反感がこみ上げてきます。これらはけつして上乗ぜうぜうのユーモアでなく、寧ろ惡感を催ふす『くすぐり』であります。つまりわきの下を擽られるのに程度ていどを超えると、はらの立つほど苦痛が伴ふのと同じ意味であります。

   りものがへんぽんとして嫁困よめこま
   かたまゆげおとすとよめでふさぎ
   ふぐいますと花嫁はなよめしやれたもの
   生酔なまゑひよめ勝手かつて可笑おかしがり
   うましりたのんでよめとほりぬけ
   ほそながくよめづけのおとがする

 これらのを讀んでゐますと、その作品さくひん上手ぜうづ下手へたべつとして、どこかに滑稽味こつけいみあがることに氣注きづきます。張りものをするのに、かぜはずに、『へんぽんとして』と光景こうけいうつしてゐるところ、よめ眉毛まゆげかたぽうおとして、むこかなんぞに覗かれて手でふさいでゐる情態ぜうたいふぐひますといふ非凡ひぼんよめ角内かくうちてあるよめが、生酔なまゑい得手えて勝手かつてはなしぶりをだいどころからわらつてゐる容姿やうす、馬のうしろを通るわのよめはづかしいのと遠慮ゑんりよとでづけのおと角小かくちいさくするところなぞ、それぞれ異つた場合の可笑しさを隠したり、現はしたりしてゐます。かういふところが川柳としての滑稽味の特徴であります。併し、冷静に考えますと、これらのの中にも、んとなしにさえたらしい滑稽味こつけいみ餘儀よぎなくされてゐます。それはある可笑おかしみのある事件じけんとか動作どうさとかを發見はつけんした作者さくしや觀察眼かんさつがんぼんではありませんし、それに平凡へいぼん事象じせうでも、これを滑稽化こつけいくわさしめた作者の手腕しゆわんみとめなければなりませんが、それだけに、ほんとの滑稽こつけい、自然の可笑しみを現はす上には、缼點けってんがあります。すなは多少たせうの無理が生じるのであります。たとえば、りものゝよめたいして、『へんぽん』とする風を連想せしめた表現法は、たしかにたくみではありますが、その『へんぽん』たる表現法へうげんほふには多少たせう誇張こてうしすぎたきらひがないでもありません。絶對ぜつたい誇張こてうしてわるいことはありませんが、これが程度ていどえると無理むりみます。だからしん滑稽こつけいは、けつして誇張こてうさせない、わざとらしからざる眞面目まじめさが嚴肅げんしゆくそんしてゐなければなりません。これは却却大變なkなかたいへんに六ケしいもので、ユーモアをほこ外國がいこく文學ぶんがく詩歌しかなかにも、さうザラ●●には發見みつかるものではないのです。して十七短詩たんしなかにこの眞面目まじめ滑稽味こつけいみ含畜がんちくすることは、ふべくやすくして、じつ至難しなん事業じげふであるとまをさねばなりません。

   湯殿ゆどのからわすれた時分じぶんよめ

 この表現法へうげんほふとしては、まことに平凡へいぼんなもので、なんらの技巧ぎこうみとめられませんが、しか無技巧むぎこう技巧ぎこうなかふくまれてゐる、眞面目まじめなる滑稽感こつけいかん忘却ぼうきやくしてはならないとおもひます。全體ぜんたいかんじから、可笑おかしさがさへても、制さへてもあふれてくるのをみとられます。これらのは、長湯ながゆといふ觀念かんねんと、それから『わすれた時分じぶん』といふ如何いかにもノンビリとした氣持きもちなかから、ユーモアがながれてくるのでありまして、おな湯殿ゆどのでも

   はづかしさ嫁据よめすえ風呂ぶろがこぼれ

 は、そのはらんでゐる有様ありさまたくみにえがしてはゐますが、どこかに『わざとらしさ』のかげがつきまとつてゐることをいなむわけにはかないとおもひます。勿論もちろんこれは善惡ぜんあくとか高下こうげべつにしてのおはなしです。
 これをえうしまするに、しん滑稽こつけいには眞面目まじめさがなければならないことゝ、滑稽こつけいなかからにじなみだともな程度ていどにならなければ、ユーモアの川柳せんりうとしてほこることができません。たんわらはすだけのものならば、アハハゝゝゝかオホホゝゝゝで仕舞しまひになります。なんのユーモアとしての價値かちをつけることはできないのであります。

(二)穿ちといふこと(皮肉と理屈)

 穿うがちとは、ものを皮肉ひにくたり、あらはしたりすることで、これを社會しやかいうへますと、對象物たいせうぶつとかある事件じけんをば、ありのまゝに正直せうじきずに、その事件じけんとか對象物たいせうぶつなかから、裏面りめんなり逆意ぎやくいなりにあつかふて、所謂辛辣味いはゆるしんらつみくわえることであります。だから穿うがちといふことは、相手方あいてかたドキン●●●つよく胸を射ることで皮肉であればあるほど、その價値かち上乗ぜうぜくであります、それだけに相手方あいてかた憎惡ぞうおまねくことはむをません。
 古川柳こせんりう發達はつたつのあとをみますと、ほとん全部ぜんぶ穿うがちの氣分きぶんふくんでゐるとみてもよいのであります。よく世間せけん人達ひとたちが、川柳せんりうほど皮肉ひにくなものはない、といふことはすなは穿うがちが十ぶんふくまれてゐることをうらきするものであります。まことに川柳せんりう發生はつせいした要素えうそ皮肉ひにく辛辣味しんらつみによつて價値かちづけられます。川柳せんりうせうして寸鐡殺人的すんてつさつじんてきとか警句けいくとかまをすのも、この意味いみからであります。それだけ川柳せんりうは、對社會たいしやかいかつて皮肉ひにく嘲笑てうせうあびせかけてゐますから、どちらかといへば川柳せんりうてきおほつくつてゐる次第しだいでありましやう。俳句はいく藝術的境地げいじゆつてきけうち自然しぜんそのもの、鑑賞かんせうにありとすれば、川柳せんりう對社會たいしやかいへの皮肉ひにく嘲笑てうせう冷罵れいばとの反逆兒はんぎやくじであるともみられます。だから川柳せんりうはその全體感ぜんたいかんうへ滑稽こつけい分子ぶんしふくんでゐるとともに、その一にはだいなりせうなりの皮肉ひにく分子ぶんしふくんでゐるとみてもよからうとおもひます。これをえうするに皮肉ひにく滑稽感こつけいかんとが相脈絡あひみやくらくして、川柳せんりう組成そせいしてゐるものと差支さしつかえがないのであります。それほどに川柳せんりう重要ぢうえうなる穿うがちとは、どういふふうつくられてるものか、これを以下いかれいつて古川柳こせんりうつい分解ぶんかいしてみませう。

   よいをんなどこぞか女房ねうぼうきづをつけ

 このでみますと、をんなすなはちいゝ緻縹きれうをんなたいして、女房ねうぼうが『どこかにきづをつけた』といふ句意くいですが、このをんななかから、どこかにわるてん發見はつけんする女房ねうぼうこゝろもちを穿うがつたものであります。どこかにきづ發見はつけんしなければおさまらぬ女房ねうぼう自尊心じそんしんとらえたもので、全體ぜんたい穿うがつた氣持きもちがあらはれてゐます。

   どん女房ねうぼうかほしろ

 稍々やゝ狂句けうくじみたでありますが、これなぞも、それとはなしにどん女房ねうぼうかほくろさを皮肉ひにくつた、もので、し、ほんとにしろければなん變哲へんてつもないとなります。くろいところがあればこそ、いさゝしろえたといふ穿うがつた言葉ことばとなります。だからこれらはくろたいするしろ對象たいせうであります。

   そこらまでつてわが金女房かねねうぼ

 からける穿うがつた分子ぶんしは、女房ねうぼう自身じしんとらせうして『わがかね』とことわつてあるところにふくまれてゐるのです。これもおなじく性質せいしつとらでありますが『とら』としてしまへば、さうたいして皮肉味ひにくみがなく、むしろ平凡へいぼんちかいものになりますが『わがかね』と一本釘ぽんくぎかしたところに、穿うがつたとしての價値かちがあります。だから穿うがつたは、かなら《かんさつ》の|鋭敏ゑいびんと、表現へうげん寄警きけいとを必要ひつえうとするのであります。

   うつくしさしかられぶりのいゝ女房ねうぼう

 このも、なか七の『しかられぶり』がいてゐるのです。なか七が平凡へいぼんあらはしかたでありますと『うつくしさ』と前提ぜんていした表現法へうげんほふ滅茶々々めちやめちやになります。

   仲直なかなをりもとの女房ねうぼうこゑになり

 夫婦喧嘩ふうふけんくわをしたあとで、まあまあ機嫌きげんなをしておくれといつた調子てうしのところ『もとの女房ねうぼうこゑ』のやさしさにかへつたのであります。この『もとの女房ねうぼうこゑ』で、いままでの大嵐おほあらしのやうな女房ねうぼうこゑ連想れんさうさせます。それがすなは穿うがつてゐるからであります。これを

   仲直なかなを女房ねうぼうやさしいこゑになり

としますとつともせまるものがありません。つまり普通ふつうのことを普通ふつう文字もんじで埋《うづ》めてしまひますから、平凡へいぼんとなつてしまふのであります。事件じけん平凡へいぼんでも、これをかすところに、手腕しゆわん必要ひつえうであります。最近さいきん川柳界せんりうかいおほくは、この心得こころえけてゐて『やさしいこゑになり』ばかりにおとしてります。表現法へうげんほふ寄警きけい川柳せんりう死活問題しくわつもんだい提示ていじしてゐるのであります。

   れてゐるだけが女房ねうぼうよわみなり

 このも、女房ねうぼう弱點じやくてんをとらへるに『れてゐる』ことによつて穿うがつてゐます。良人をつと放埒ほうらちを、たくみに言外げんがいかくしてありますが、十ぶんにそれとさとらすだけの用意よういは、上五の『れてゐる』にかしてあります。だからわかはなしがもちあがつても、やはり女房ねうぼうの、くちではそれとつよさうにかけても、内心ないしんではれてゐる弱味よわみに、しみじみとゐてくる連想れんさうきてまゐります。

 はらかどをあけるも女房ねうぼうなり

 前句ぜんく連關れんかんしてゐる句で、女房ねうぼうのさすがに女性じよせいよわさをあらはしたものであります『はらつ』のかみ五をよくよく玩味ぐわんみすべきでありましやう。

 店先みせさきては亭主ていしゆをにくがらせ

 


(以下、後日追記予定。著作権の切れていない、あるいは切れているか分からない作者の句は写さないつもりです。その場合は、作者名及び著作権保護期間中or没年不明、と明記するつもり。)


(三)輕味といふこと(洒脱と平淡)


(四)三要素に關して


(五)眞實味といふこと



(六)寫實味といふこと

 俳句はいく寫生しやせいがあるがごとく、川柳せんりうにも、川柳獨特せんりうどくとく寫生しやせいがあります、わたくしかりにこれを寫實しやじつとなえてきます。しからば川柳せんりう寫實しやじつとはどんなものであるか、一げんにして説明せつめいすれば、對象物たいせうぶつ焦點せうてんもつともよく描寫べうしやするものであつて、その作品さくひん社會しやかいあらゆるものゝ縮圖しゆくづとして、生命せいめいえがしてゐます。ときには俳句はいくおなやう忠實ちうじつ平面描寫へいめんべうしやもありますが、


(七)超越味といふこと


(八)感覺味といふこと


第三篇 川柳の形式(聲調と用語)

(一)簡潔であること


(二)説明體


(三)『居』と『來』


(四)口語體


(五)洒落體


(六)『也』と『なり』


(七)考へさせる句


(八)形容體


(九)省略法


(十)上達方


第四篇 川柳の作り方


(一)川柳味と天文


(二)寫生吟


⬜︎著者より諸子へ

 終りに臨んで一言附加して置きます。最初は本著の依頼を受けた時、もつと作り方に就て詳述したい希望で、いろいろの項目を分類ぶんるゐしてゐましたが、さて執筆してみると思ふやうには書けませんし、私自身で判つてゐて、皆さんにお判りにならない點も多々あらうと思ひます。恐れるのはそれであります。併し、紙數に制限がありますので、もう此の以上書くことは許されません。なんだか龍頭蛇尾に終つたやうに思ひます。これらの點は著者としてお詫びいたします。それで諸子が深く川柳を專問的に研究してみやうとお考へでしたら專問書による方が良いと思ひます。まづ大阪おほさかからは『南區玉屋町一番地番傘川柳社』から『番傘』が出てゐますし、『兵庫縣鳴尾村字寺の後の川柳雜誌社』からは『川柳雜誌』が發刊されてゐます。いづれもく關西の句風を傳へてゐますが、初心の方には『川柳雜誌』の方が適當であらうと思ひます就て御覧になることをおすすめいたします。猶ほそれ以上の疑問や希望のあるお方は、直接著者宛てにお手紙をいただければ結構です。宛所は『大阪市外萩の茶屋六六五』です。
 終りに、番傘社の人々に無斷で選句をした僭越をお詫びいたします、いづれ名玉を拾ひおとしたゞらうと思ひますが、時は酷暑、時日は僅に半月足らずで書き上げた仕事ですから、幾多の疎漏そらうがあるだらうと思ひます。それらもまづ職業的著述として大眼でみてゐたゞきたいと思ひます。いづれ、餘裕よいうの出來た時は、もう一度嚴密に見直してみやうと思ひます。が、大抵は眼を行き届かして選句はしたつもりで居ります。

(以下、後日追記予定。著作権の切れていない、あるいは切れているか分からない作者の句は写さないつもりです。その場合は、作者名及び著作権保護期間中or没年不明、と明記するつもり。)


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