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洗い髪乳癌らしい疵の跡 / 亀井花童子 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

洗い髪乳癌らしい疵の跡

亀井花童子(1893-1958)



一応、“洗い髪”は夏の季語。
評者の手元にある歳時記を引いてみると

夏は汗と埃などで髪が汚れやすいので、洗ったあとの爽快感はひとしおである。そのため夏の季語になっている。洗ったばかりの「洗ひ髪」は粋であると同時にエロティシズムさえ感じさせる。

今はじめる人のための俳句歳時記 新版,角川学芸出版=編,
角川ソフィア文庫,2003

夏の洗髪した後の爽快感は格別。特に女性の長い黒髪を思わせ、洗ったばかりの姿(洗い髪)には色っぽさも。

ハンディ版 オールカラー よくわかる俳句歳時記,石 寒太(編),ナツメ社,2021


とある。


しかし、この花童子の川柳は、歳時記にあった解説とは、かなりテンションというか、色合いが違う。(俳句じゃなくて川柳だから、当然と言えば当然なのかも知れないけど)

黒髪の色っぽさ・艶やかさよりは、暗い、暗い、影があって。夏の爽快感というよりは、それがおわって色んなものが枯れ始めるような秋の暮れ…みたいなイメージもわく。

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“乳癌らしい疵の跡”の、“らしい”にも、どこかあやしさがあって……。
もちろん「乳癌の傷跡」とストレートに言われるよりは、ちょっとぼやけた景にはなるものの、しかし当然“乳癌”の重みを躱わしきれているわけでもない。というか、別に躱わすつもりもないのだろう。

“らしい”によって、焦点が定まりきらない景のなかであっても、空気は重たいままだ。

なにか、まだ語り手自身が〈現実〉を直視しきれていないがゆえの、“らしい”という語りなのかも…なんて思ったりもした。

そう考えると、そもそも、この“らしい”は“乳癌”の重みを〈軽く〉しようとしているわけではなく、本当にただ、「ぼやかそうとしているだけ」だ。現実の重たさをそのまま〈空気〉として保っている。
それによって、〈重たさ〉と〈浮遊感〉が一句、5-7-5の中で同居していられるのだ。

そして、そこに〈詩性〉があるようにも思える。

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具体的な病名をつかっての作句って、どうしても実作者がどのポジションから書いているのかが気になってしまったりもするのだけれど、今のところ亀井花童子に関する詳しい資料は手元になく……。
(この句は『北海道川柳史』(斎藤大雄,北海道新聞社,1979)に引かれていた句です。引かれてあっただけで、特に句の内容そのものには言及されていませんでした。花童子さん、柳界内でのいざこざは結構あったらしく、もと居た結社を抜けて新しく結社したりもしてるそう。)

もし、俳句の季語のイメージを転覆させるためだけに、“乳癌”を持ってきたのだとしたら、ちょっとデリカシーに欠けるような気もしないでもないな……とか…。逆に、なにかの〈実感〉を詠んでいるのだとしたらすごく力があるような…とか。

ただ、そういう「どういうポジションから、なんでこの句を詠んだの?」みたいな問いは、最終的には〈作品論〉というよりも〈作家論〉になってしまうところもあるんだろうなあ…。

なんてことも感じつつ、今まで自分があまり見てこなかった個人レベル(戦争とか、社会風刺とかではなく)での暗さを伴った川柳で、なおかつ何かを訴えかけてくる句のような気がしたので、少し立ち止まらされてしまいました。

結局じゃあ、この評でなにが言えたと言うわけでもなかったかも知れないけど…。

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