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まぎれ込んでしまつたままに蓋をされ / 三笠しづ子【著作権のおわった柳人の句をよもう!】


まぎれ込んでしまつたままに蓋をされ

三笠しづ子(1882-1932)


 6-7-5。上五部分が字余りの川柳。この字余りは、“まぎれ込んで”しまっている感を増幅させているような気がして、いいなと思う。

 “蓋をされ”る。閉じ込められる。居ないことにされてしまう。ひどいことだ。なのに、語り手の被害者意識は、なんだか漠然としている。感情は乗りきっていない。だから、深刻…とまでは確信できない、しかし深刻かもしれない…みたいな暗くて怪しい雰囲気が残る。

 語り手は何に“まぎれ込んでしまつた”のだろうか。この「何に」が明言されていないところの余白。そこに宿る詩情。

 また、下五が「蓋される」で終わるのではなく、“蓋をされ”と語られているのも良い。蓋をされてすぐに「ブツ切られる語り」では無く、“蓋をされ”たあとの未然感や、語り手の意識のうちで「やりのこしたこと」などを匂わせてくるような、時間的ふくらみを感じることができる。

 しかも、「まぎれ込んでしまつた際に蓋をされ」でもない。“まぎれ込んでしまつたままに蓋をされ”という言い回しだ。「しまつた際に」とか「しまつた時に」だと、蓋をされるその瞬間的な場面しか景として浮かんでこない。
 だが、“しまつたままに”は、なにか時間が一点だけ切り取られるのではなく、面や線として、句の中でも流れているような感じがする。
 瞬間を点として切り取るのではない、“ままに”という語りによる、はっきりしなさ。「まぎれ込んでしまった際に」だった場合は、なにかうっかりしちゃった感じだったり、コメディ風な雰囲気があるが、“ままに”は絶妙に怪しくて、暗い。

 “蓋をされ”ることによって、外界からの光が遮断されてしまうからこそ(なんの感情も語られていないのに)その暗さの中で、「語り手の語りだけ」に蠢きを感じるようになる。
 十八音に閉じ込められたその動的な暗さが素敵だと思った。

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