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関節になつてしつかり手をつなぎ / 井上信子 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

関節になつてしつかり手をつなぎ

井上信子(1869-1958)


“関節”。骨と骨との接地面。

「手を繋ぐ」というイメージから、肉(肉感)でも骨でもなく“関節”までいったところがすごい。




この句における“関節になつて”は、多様な解釈が可能だ。

語り手が、〈語り手自身の手の関節〉に“なつて”しまうくらい“関節”へと〈意識〉が集約していくことによって、「自分の手」と「相手と手」とを握り合うときの触感をより鋭敏に感じとっているような景…としてもよめるし、
自分が誰か(Aさん)と誰か(Bさん)の手と手を取り合わせるような〈“関節”役〉として立ち振る舞うことへの覚悟や意志…としても読むことができる。

もしくは、少しエロティックかも知れないが、自分の身体と相手の身体それ自体を“手”の比喩として捉え、それを“つなぎ”、自らくねる“関節になつて”いる…なんていう性愛句的なよみもできるかもしれない。
(もちろん、作者の意には反するのかもしれないが)




しかも、この句における語りは「関節として」とか「関節にされて」ではなく、“関節になつて”であり、ここに語り手による〈積極的な意志〉を垣間見ることもできる。

もともと関節としての役割が与えられているから、仕方なく繋ぐ…のではない。
語り手が自ら“関節になつて”、〈関節としての役割〉や〈関節としての自分〉を引き受けていこうとする意志。「つなぐ」ことへの志向性。

愛がある。この句には。愛そうという意志がある。

「関節になつてしつかり手をつなぎ」…という言い回しとも、また違う。“関節になつてしつかり手をつなぎ”だ。
単に、中八を回避するために「も」を抜いているというわけではないだろう。「なって」なんて、そもそも言う必要がないのである。

語り手自身が、「自分はこの場において関節になる!なる必要がある!」という確信のもとに、“関節になつて”いる。



最近、鶴彬に関する新書をよんでしまった自分としては、井上剣花坊と鶴彬との(すこし揺らいでもいた)師弟関係をそばから見守っていた作者、井上信子の、「二人の関係を断たせてはいけない」と気遣うような優しさ・努力があらわれたような句…としても読めたりした。

…まあ普段は、「実作者」と「句の語り手」とを同一視してよむのは、あまり好きではないのだけれど。

ただ、いずれにしても「この“手”は、誰の“手”なんだろう?」とか、あるいは「“手”自体もなにかの比喩なのだろうか?」…というように、色々と想像を巡らせながら川柳をよんでいく作業はとても楽しい。

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