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人間を摑めば風が手にのこり / 田中五呂八 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

人間を摑めば風が手にのこり

田中五呂八(1895-1937)

 『北海道川柳史』において、この句は田中五呂八の代表句として紹介されている。1929年に、柳誌『氷原』に発表された、五呂八35歳(数え年。ちなみに『北海道川柳史』では数え年三十九歳と書かれているが、おそらく誤植。)になる年の作品。『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房,2020)の第五章でも田中五呂八の作品として引かれた一句はこの句。なので、これが五呂八の代表作というのは、柳界内でも割と共通理解なのかなと思ったりした。じっさい美しい句だ。

 ただ、黒川孤遊(編著)の『現代川柳のバイブル 名句一〇〇〇』(飯塚書店,2014)において、この句が〈天気〉の項目に引かれていたことにちょっと笑ってしまった。天気なのか?これは。まあ、いいや。よんでいこう。


 “人間を摑”む、ということについてまず考える。パターンとしては「人間の腕を摑む」とか「人間(=ひと)の心を摑む」とか…。あるいは、ある特定の人と一緒に居られるような「未来」や「夢」を摑む……みたいな感じで、“人間”の後ろに何か別の語りが省略されていて、それが句においては“人間”に代表されている…という解釈。または、もういっそのこと『進撃の巨人』みたいに、まんま“人間を摑”む〈何ものか〉が想定された上で詠まれた景なのだ……なんていう解釈も無しではない。
 ただ、いずれにしても、この句においては、人間を摑んでも、あとに残るのは“風”だけである。

 うん。やっぱりこれは、天気ではない気がする。(笑)どちらかというと孤独を詠んでいる句だと解釈する方が自然かな…なんて。(一応、『現代川柳のバイブル 名句一〇〇〇』には、〈孤〉という項も用意されてはいる。)

 摑まなければ終わってしまう。摑まなければその人は、もう自分の前から消えてしまう。そうして、摑んでみる。摑むしかなかった。のに、手にのこるのは“風”ばかり…。
 “人間を摑”みたいのは、語り手の欲望であり、執着だ。世界はそんな欲望どおりには決して動いてくれない。“人間”は他者である。相手のある話なのだ。だからこそ、自分本位に摑もうとしても幸せは訪れない。“風”のように去ってしまうだけ…。

 それでいて、「摑んでも風が手にのこり」ではなく、“摑めば風が手にのこり”という程度に、語り手の感情がおさえられているところにも無常感があってよい。あくまで冷静なのか。それとも、もはやその喪失感に呆然としてしまっているのか。

(一旦、ここまで)



 ここからは、純粋に句をよむのとは違った、野暮な洞察に入るのですが、お許しください。作者の人生や人間模様から、句を読み解いていきます。(そういう読み方が嫌いな方は、今回はここまでで。すみません。また読みにきてね!!)

 田中五呂八は大正時代後期から、川柳により高度な文学性を持たせようと、詩や芸術領野への接近などを図るような活動をしていました。『氷原』も、五呂八がたちあげた柳誌です。そんな活動のさなか現れたのが、彼より十四歳年下の柳人、鶴彬つるあきらでした。次に引く二句は、鶴が16歳の時に発表したもの。

暴風と海との恋を見ましたか

鶴彬(1909-1938)

地球がまるく人達はすべります

鶴彬

 高い詩性を伴った鶴の川柳に、当然五呂八も魅了され、当時まだ未成年だった鶴彬のことを相当可愛がっていたそう。鶴のほうも田中五呂八を兄のように慕っていたのだとか。

 ただその後、時代そのものがだんだんと軍国主義的に移り変わり、また自身の生活苦なども実感するようになっていった鶴彬は、森田一ニかつじと共にこれまでの五呂八の川柳観に異を唱え、プロレタリア川柳への道を歩み始めることになりました。斎藤大雄は、『北海道川柳史』において、その時の状況をこんな風に書いています。

 森田一ニと鶴彬は五呂八の生命主義に対して攻撃の手をゆるめることはしなかった。((中略))それに対して五呂八は「生命主義の観点より──唯物史観的芸術論を駁す(森田一ニ氏への回答)」(昭和三年六月号)で終止符を打ったのである。終止符を打ったというのは森田一ニ、鶴彬の原稿を『氷原』誌上からボイコットしたのであった。
 この論争のなかで鶴彬が五呂八の生命主義へ反旗をひるがえしてプロレタリア川柳へ傾倒したことは飼い犬に手を噛まれた以上のショックであった。それだけ五呂八は鶴彬の作品に期待し、激励や溺愛をもって育成を見守っていたのである。愛弟子に裏切られた怒りは「かつての愛撫と激励は忽ち憎悪と論難と変わり、それまで僕の畏敬してゐた田中の重々しい力は、まるで僕をおしつぶさんばかりの圧力となって迫ってきた」ほどはげしいものであったと鶴彬は述懐している。そのとき五呂八は数え年三十四歳、鶴彬は二十歳のときであった。

『北海道川柳史』斎藤大雄,北海道新聞社,1979,237-238頁

 冒頭でも書いたように、五呂八が“人間を摑めば風が手にのこり”を発表したのは1929(昭和四)年。三月号なので、まだ鶴との訣別から一年経っていない頃の作品です。ここにおいて、先に引用した、鶴の“暴と海との恋を見ましたか”という句(鶴彬が、がっつりプロレタリア川柳に傾倒する以前の代表句)が下地になっているようにも見えてきます。五呂八の愛した「暴風」。もしかすると、訣別する前には、行くな!と摑もうとしたのかも知れません。しかし今、彼の手元に鶴はいない。のこったのは、彼がテキストとして置いていった“風”ばかり。
 そう思うと、すごく切ない……。という一方で“人間を摑めば”の句には、先程の鶴から見たときに語られていた「憎悪」の感情よりも、五呂八の視点から見たときに想定できる「(愛弟子に去られてしまった)かなしみ」の方が、より深く反映されているようにも見える気がします。
 実際、五呂八は鶴や森田の原稿に対して、完全な無視をしたというわけではなく、特高警察の思想弾圧に警戒しているから載せられないのだ、という主旨の書簡を送ってもいたそうです。(参考:『反戦川柳人 鶴彬の獄死』佐高信,集英社新書,2023,139頁)
 まあ、そんなの言い訳じみている…と言われたらそれまでかも知れませんが。

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 この“人間を摑めば風が手にのこり”を発表した1929年頃、五呂八は作句よりも編集作業に忙殺されるようになっていました。また病気も重なって、それ以降は本当に句作がままならなくなり、昭和六年には『氷原』も休刊となってしまいます。そんな暗い時間への突入も予感させるようなさみしさのある句です。

 『氷原』は昭和十一年に再刊号も出ましたが、五呂八は「編集後記」で、肉体的にも精神的にも安定していないことを記し、編集兼発行人も別の人に譲りました。ちなみに『氷原』の長い休刊の間、鶴彬は鶴彬で、徴兵されたりなんなりでバタバタだったようなのですが、再刊号が出るということを知った時は五呂八に「よみたい」という手紙を送ったのだとか。
 あの訣別から、少し時間が経ったお陰もあってか、五呂八はその再刊号を鶴彬に送る際の手紙に、自身が沈黙している間も鶴の川柳の仕事にたえず注目していたことや、「くだらない味方をたくさんもつよりも、君や森田のやうな手ごわい敵をもつことの方が張合ひがある」というようなことを書いていたそう。少し愛もあるような、おかしみもあるような言い回しです。1937年、五呂八の訃報を知った鶴彬も、評論の中で彼の功績を認め、その死を悼んでいます。
 摑もうとした時には摑んでおけなかった人も、時が経てばまた風のように戻ってきてくれるのかもしれません……と、月並ですが、そんなことを思ったのでした。

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 鶴彬の視点に寄ったメディアから見ると、どうしてもその原稿をボイコットした田中五呂八は悪者(よくて臆病者)扱いされがちなところもあるのですが、『北海道川柳史』では、田中五呂八からの森田一ニに対する反論も丁寧に扱われている(むしろ、五呂八はプロレタリア川柳自体は否定しておらず、「プロレタリア川柳だけが川柳なのだ」という見方に抵抗しようとしていた…という風に、評者としては受け取っています。)ので、ご興味ある方は是非そちらも読んでみてください。古本しかないとは思いますが、それでも、2024/12/11の段階では、まだそんなに高い値段ではなく、ネットで買えると思います。

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