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さいころと一緒にぽんと投げ出され / 島田雅樂王 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

さいころと一緒にぽんと投げ出され

島田雅樂王(1889-1943)


 『新興川柳選集』(渡邊尺蠖:監修、一叩人:編者、たいまつ社、1978)によると、昭和二年(=1927年)に発表された句らしい。

 この“ぽん”というオノマトペが絶妙に良いな、と思う。乱暴にされるわけでもなく、“さいころ”を振る「ついで」くらいな感じでほっぽり出されてしまう語り手。

 そもそもこの語り手が人間であるという保証自体どこにもないのだが、それでも“一緒にぽんと”という平和な言い回しの裏には、なにか『巨人の掌』があるのではないか…という気がしてくる。『巨人の掌』が、“さいころと一緒に”語り手を持っていたのだ。
 その気になれば、いつでも語り手の身体を握りつぶすことが出来たに違いない。…のだが、それでいて、この句から不気味さはあまり感じられない…というところがすごい。
 きっと「恐ろしい巨人」ではないのだ。……かと言って、語り手を“投げ出”しているわけだから「優しい」のか?と問われると難しい。

 無邪気な巨人…なのかなあ…。

 語り手も、その『掌』から“投げ出され”ている割に、放られたあとに宙空から地上に落ちる際の『身体的な痛み』まではなかなか見えてこない。“投げ出され”たあとは“投げ出され”たままなのだ。着地点がなく、そこには『“ぽん”程度の孤独』だけが残る。
 
 その捉え所のなさと、呆気なさ。この呆気なさは、川柳的な〈軽み〉だと思う。

 「“ぽん”程度の孤独だけが残る。」と言ったが、語り手は、(巨人の掌で握り潰されることは無かったものの)“投げ出され”てしまったことによって、出発点は“一緒”だった“さいころ”とすら、投げ出された先の空中で別れてしまう。
 いや。別に“さいころ”となら、そもそも一緒に居たってしょうがないじゃないか。という正当なツッコミも成立はするが、やはりここには一抹のさびしさがある。

 “さいころ”の表記が『サイコロ』じゃない分、どこかそれが『単なるモノ』ではないような気もしてくるのかも知れない。ペット……とは言わないまでも、少しカタカナよりも『生きもの』っぽさが出てくる感じ。一般名としての「サイコロ」よりも固有名詞っぽくなるからかなあ。

 一般に、『平仮名に「ひらかれる」』なんて言ったりするが、この“さいころ”は、なにか固形としての「モノそのもの」が「ほどかれている」ような感じもした。

 ほどかれた“さいころ”と、その“さいころ”と同等に扱われながら、最終的にはその“さいころ”とさえ別れてしまう、着地のイメージすら湧かない“投げ出され”たままの語り手。そしてその裏に、句そのものにおいてはまったく語られてすらいない『巨人の掌』だけがありありと見えてくる感じが、面白かった。

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