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ああ──黄金の欠伸を見よ / 木村半文銭 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

ああ──黄金の欠伸を見よ

木村半文銭(1889-1953)

これ、携帯で文字打ってるんですが、“──”のところ、どうしよう、打てないじゃん…と思ったんですよ。

「ああーー黄金の欠伸を見よ」

は、流石に、著作権切れてても怒られるでしょ。

そしたらね。「けいせん」って打ったら、そっから変換できました…ってことにまず感動しています。

すみません、本題に入ります。



…はい。本題。
木村半文銭には、

紀元前二世紀ごろの咳もする

木村半文銭

とか

元日─────────暮る

木村半文銭

など、現代川柳をやっている人たちの間でも大人気な有名句が沢山あります。

スケールが大きくて、ちょっとキザで、一句の中で時空を思いきりとばしていく。

格好つけているのが、鼻にもつかず、そのまんま格好いい柳人…というイメージだったのですが、この“欠伸”の句には、どこか可愛気があります。

罫線も、さきほど引用した“元日”の句よりもスケールが小規模。
(元日句の罫線の長さは九文字分(※1)。対して“ああ──黄金の欠伸をみよ”の罫線は二文字分だけ。)

なんなら罫線に込められた意味合い自体が、すこし質的に違うような気がします。

“元日”句の罫線は速度の描写。罫線が長いのはむしろ、圧倒的な速度を出すために必要な距離であるように思います。
一句の中で、一年をあっという間に過ぎ去さらせ、終わらせる…その〈加速のために用意された距離〉としての罫線。

対して“ああ──黄金の欠伸を見よ”の罫線は、欠伸を「間伸び」させるための、言うなれば〈その動作の持続〉のために使われているように見えます。

加速的に時を終わらせるための罫線よりも、欠伸を持続させるための罫線の方が短い罫線で表現されているのは、なんだかいいですよね。
それでこそ文芸という感じ。

しかも、“ああ──黄金の欠伸を見よ”の場合は、これ以上罫線が伸びてしまっても、逆に“欠伸”としてのリアリティがなくなってしまう。
そう。あくまで、句頭では「日常的な欠伸の雰囲気」を保っているからこそ、そのあとの“欠伸”を修飾する“黄金の”…が効いてきます。

句頭から「ああ───────」という欠伸にしてしまっては、読者としても、これは最初から日常から乖離した「特殊な欠伸」なのだろう…と身構えてしまいます。
そうなってしまっては、あとから“黄金の欠伸”と言われても「そりゃそんだけ長い欠伸なら黄金でしょうよ」と、興醒めしてしまうはず。

「日常の欠伸」と離れすぎていない“ああ──”だからこそ、その後につづく“黄金の欠伸”に驚くことができるのだと思います。


そして読者は、けっきょく“欠伸”に過ぎないと分かっていながらも、語り手からの要求どおり、それを“見よ”うとせざるを得ない…。

そのちょっとしたくだらなさが、いとおしく、景全体や読者との駆け引きも含めて可愛らしいなと思いました。

“黄金”という語を、こんなに、驚きの要素も保ったまま「軽く」提示できるって、やっぱすげえです…。

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(※1)
ここでは、新葉館出版の『近・現代川柳アンソロジー』に載っていた

元日─────────暮る

を参考にしたのですが、書肆侃侃房からの『はじめまして現代川柳』では

元日 ─────── 暮る

と、空白にしても、罫線の長さにしても、すこし違った引かれ方をしていました。
どっちが本当なのかわからないので、誰か知っている人は教えてくださると嬉しいです。
(まあでも、この評全体にはそこまで影響しないかな…というような気もしています。)


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