【川柳句会裏紙 第一回】における、牛田が書いた句評の不備。および、より最高な鑑賞の仕方にむけて 2025.02.23

 今年の二月から、【川柳句会裏紙】という句会で、川柳作品と句評を発表させてもらえることになりました。

 今月初回だったのですが、一句(本当はもっとあるでしょうが、特にこの一句)どうしても、明らかに僕が鑑賞者として読み切れていないまま、評をしてしまっていた句がありました。

 作句者の方に大変申し訳なく、また、そんな及ばない評のなかに、僕が不用意に引用してしまった、…というよりは、もはや僕の自己満足として引用してしまったようにも見えるであろう(──これは言い訳ですが、評を書いた時点では、それが誠実なことだと思っていました)、川柳作家の方にも申し訳なかったです。

 流石に、このままにはしておくのは無責任なので、改めて自分のnoteで、僕の読みのどこが「川柳鑑賞」として及んでいなかったのかについて考えさせてください。


 句は以下に引用する、栫伸太郎さんの句です。

語り下ろしの各部名称

栫伸太郎

 まず自分が、【川柳句会裏紙】においてこの句に与えた評の一部を(本当はもう読み返すのも恐ろしいのですが)引用させてください。
 選は、予選にいれています。

面白くもありつつ、この「面白い発想」は、《発想をモロに綴っただけの川柳》よりも、なにかその発想をもとにコントや喜劇等に展開されたものを実際に見てみたいという気持ちにもなってしまいました。「◯◯(六音)の◯◯(七音)」で体言止めされる七七句って、好みの問題かもしれないけど、ちょっと身構えちゃうと言いますか…。それこそ、劇とか小説とかの〈題名〉に見えちゃったりもするので、余計そのあとの物語を要求したくなっちゃうような…。川柳作品としてだけ提示されるなら、例えば《各部名称書き下ろしです》みたいな七七句の方が、その場で「いや、名前くらいもっと大事に付けたってや!」とツッコミを入れてさっぱりと鑑賞を終えることが出来そうかも…。とか。(中略)
“語り下ろし”という、可能性に満ち満ちた言葉を見つけたら使いたくなる気持ちもめちゃくちゃ分かるし、実際この句もそういう構造の七七句の中では、かなり面白く鑑賞できたのですが…。

牛田悠貴(2025.2.17)

 ああ、もう、引用するだけで恥ずかしさと申し訳なさで吐きそうです。

 まず僕は、この句を、ある種の《説明句》としてよんでしまっていました。「語り下ろしされた各部名称」が沢山あって、それ自体を「面白い発想」として呈示している句なんだと、鑑賞してしまっていた。
 その結果として、勘違いも甚だしい改作案みたいなものまで持ち出してしまった…。

 ちなみに、今引用していない部分の評はもっと酷いかもしれませんが、ここで全文引用するとごちゃごちゃしちゃう(し、なにより更に申し訳なさで、懺悔する前に消えたくなってしまう)ので、今回の僕のnoteでは、この部分の引用のみでご勘弁ください。
 読まれる方は、冒頭にリンクを貼ったササキリさんのnoteの方で、全文を読んでいただけたらと思います。



 ところで、ササキリさんはこの句に関して次のように評しています。(中略、太字は牛田によるものです)

!。たしかに、とまず返したくなる。(中略)語り下ろしの各部名称 がこの句なんだけど、いま原理的には〈語り下ろしの各部名称〉が(〈各部名称〉がいろいろ存在しているわけでなく)存在している。だから、たしかに、って言って、私はその存在を見て(認めて)、独り言を言う、と。このたしかにという返答は、もうこの句がちゃんと終わっちゃっていて、もはや川柳そのものにかなり近いから引き出されたんだろう、という心地!

ササキリユウイチ(2025.2.17)

 括弧の中で、“(〈各部名称〉がいろいろ存在しているわけでなく)”と、僕の当初の読みの浅はかさを、あらかじめ指摘してくれています。

 ササキリさんが言うように、そもそもこの句は「“各部名称”について、それが語り下ろしのものなのだ」と、説明しているのではありません。
(その理由はここでは、それが「川柳の鑑賞として最善ではないから」と言うだけで十分でしょう。)

 「語り下ろしの○○」で用いられる、この“の”という助詞は、「語り下ろしされた状態にある○○」を指しているのではなく、『“語り下ろし”そのもの』が○○を有しているモノとして「在る」ことを意味しています。

 『“語り下ろし”そのもの』を、モノとして現出させて、その『語り下ろし』というモノの“各部”に“名称”が「ある」のだと言っているのです。

 その言明に気付くことができれば、鑑賞者の脳内において、“語り下ろしの”という、普通はそのあとにくるものの状態について述べる語が、〈名詞それ自体〉として肉付き、厚みを持った身体(生き物では無くても)を得ていく、時間的な経過を生んでいくと思います。
 単に「在る」という〈瞬間〉の描写だけではない、ということです。

 …すみません、僕の説明も少しごちゃごちゃしてきました。ここまでで、言われていることがよく分からないな…という方は、一度、語り下ろしくん・語り下ろしさん…みたいな『〈何か〉がげんる』のだ、と思えば話が早いかもしれません。
 これは擬人化ではなく、本当に本当の意味で「語り下ろしくん」ないし「語り下ろしさん」が居る、と考えてください。(※1、追記note末尾)
 ただ、これがヒト化に限られない、より広い範囲での〈モノ化〉であることも、また大事だと思うので、なんとなくイメージがついたらすぐに捨てたほうが良い像でもあるかもしれません。

***

 〈静的なものの状態〉を説明するはずの“語り下ろしの”という語が、各部を所有する名詞として立ち現れることは、そして、その各部に名称が存在しているということは、それだけで、どこまでも動的な景になるのです。
 「在る」ということそのものが、とんでもなく動的な神秘になってしまう。そのすごさ。

 また名称が「ある」ことは分かっても、「何」であるかはわからない。ということは、モノ化した“語り下ろしの”実像は絶対に身を結ばない。ここがさっき、ヒト化ではない、といったところですが、そういったイメージの無限性があります。


 白状します。
 僕は、最初に【川柳句会裏紙】の評が公開された時、この句に関する、ようなのさんの評と、ササキリさんの評が何を言っているのか、正直うまく理解できませんでした。(ササキリさんの評に関しては、先ほども言ったように、括弧の中でこんなに明確に注意を促されていたのにも関わらず!)

 何日か経って、X上でこの句の読みについて、川柳人の西脇祥貴さんとササキリさんがやり取りしているのを(それも、そのやりとりから二日くらい遅れて)見かけて、やっと、「ああ!」と悟りがやってきました。
 僕は土俵の上で相撲をとっていたつもりが、そこは楽屋だったのです。(よくて、楽屋から土俵に向かう途中の廊下くらいなもんです。)勝負をしてはいけない、好き嫌いを言える段階ではない、鑑賞の成立しきっていない段階で、好き嫌いを叫んでいた。ああああああ!あああああああ!!って感じです。穴があったら入りたい。

 今は、ようなのさんが評で言っていた「りろしの」の意味もなんとなくですが、理解できつつあるような気がします。『“語り下ろしの”そのもの』が、その字体のままで、実体(=モノ)としてあらわれたときに、その一字一字を各部名称として捉えていけるような感じ…そこから「各部名称」という四字熟語との対比の中で、『語り下ろしの』モノ化された身体から四文字のひらがなを取り出して組み立て直したくなる…ということでしょうか。(ここ、すみません、やっぱりまだちょっと理解の最中です。)



 ただ、ここで改めてなのですが…。
 僕が【川柳句会裏紙】の評で、最初に提示した読みが、「完全なる間違い」ではなかったところも、興味深いのではないか…と思うようにもなりました。

 …というのも、この句、もし説明句だったとしても、ちょっと面白いんです。(これについては、僕の元の評を、馬鹿にしながらでもいいので是非読んでください)

 ってことは、読み込めた人はより楽しめるし、僕のように少し(「少し」どころではないけど、ここでは便宜的にね…)浅い説明句として読んでしまったとしても、「ちょっとおもしろく」読むことができる。
 それはある意味で、この句が、玄人的な『深み』を有しているのと同時に、川柳初心者による鑑賞にも開かれている作品…ということなのではないでしょうか。

 この句に対して、《説明句的な読み方》から、より《現代川柳的な、「概念がモノ化されていく」ような鑑賞の仕方》へと変遷していく読句体験それ自体が、現代川柳と私との関係の深まりを象徴してくれるような気がしました。

 「誤読」ではなく、読み方が及んでいなかったということ…。むしろ、もっともっと、日常的な言語運用から見れば有り得ないような誤読を、積極的に為していかなくてはならない、というような気持にもなりました。

 また、これからは僕自身、「〇〇の〇〇」という体言止め構造の川柳・七七句そのものを、もっともっと面白く読んでいけるような予感に溢れています。
 この句を通して、それに気づかせてもらえたことに、(じつは申し訳なさにも増して)すごく感謝しています。



 栫さん、未熟な評を書いてしまい、本当にすみませんでした。今はとても面白いと思っています。(そして、今思うと、その評にとんでもない引用の仕方をしてしまった暮田真名さんにも大変な失礼をしてしまいました。申し訳ございません。)

 来月から、もっともっと鑑賞の幅に気をつけながら読んでいこうと思います。

 ただ、とは言いつつも、僕はやっぱり、間違った読みや、(今回に関しては「間違ってはいないかもしれない」ものの)及んでいない鑑賞をすることがあるでしょう。
 その時に、「評者としての鑑賞が及んでいない」と、明確に批判していただけるだけの平易な言葉で評を書いていくことは、止めないようにしようと思います。初回よりも慎重には書くけれど、「及ぶように努力したうえで、及んでいないこと」自体は、隠さずにいきたい。

 より深い読み・より面白い読みをされている他の方から転覆してもらえるだけの地をまずは固めて、そこからご批判があった時に、反省しようと思います。

 2月17日に、Xで、ササキリさんの裏紙句会noteをリポストしたとき、僕は多分、憧れていた川柳人たちの仲間に混ぜてもらえたことで、かなり調子に乗っていました。いや、多分…ではなく、明確に調子に乗っていたでしょう。「お𠮟り受けます!」なんて調子のいいことを書いてしまっている…。
 違います。どうか、どうか、これからはみなさま、しっかりご批判いただけましたら幸いです。

 これからも、まずは自分がどういう読み方をしたのか、は、ちゃんと(現代川柳に興味のある方になら)誰にでも理解可能な評を書くように心がけますので、「あれ?これ牛田さん、なんかちがくね?」「この鑑賞もったいない気が…。」と思うことがあれば、教えていただけると本当にうれしいです…!!

 みじゅくじゅくじゅく川柳人ですが、そこから脱せられるように頑張りますので、三月からの裏紙句会でも何卒宜しくお願い致します!!


牛田悠貴




(※1、追記 : 2025.2.23. 21時04分)
 より正確に言おうとすると、これは「語り下ろしさんが『居る』」というよりも「(読者の脳内に)立ち現れてくる」という言い回しの方が適切だったかも知れません。
 単に語り下ろしさんが「居る」のだと考えると、静的に思えるかも知れませんが、やはり『語り下ろし』という語が、いきなり〈そのもの〉として居るなんてことは中々出来ない。そこには「居る」という状態へと至るために「立ち現れてくる」ということが必要でした。そしてその立ち現れる過程(なかなか像を結ばないがイメージを掻き立ててくるその過程)こそが、自分が『動的』と捉えたところです。
 このnote記事を発表したあとに、楡さんからご指摘いただき、「確かに!」と思ったので追記しました。

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