真相はこうだと昼の花薫る / 後藤蝶五郎 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】
普通、「真相はこうだ!」と言うときには、相手に対して何かしらの証拠品を提示して〈視覚〉に訴えたり、説明を聞かせ(つまり〈聴覚〉に訴え)たりすると思うのだが……。
それがこの句では、“薫る”と、最終的に〈嗅覚〉に訴えかけるような着地をしているところが興味深い。
この句と対比できそうな短詩として、古今集にある
という和歌を連想させられた。
どちらの作品も、花の匂いに言及している点では同じ。
ただ、和歌の方は、まさに“真相”である花自体の色(=姿)は、夜の闇に隠されている。その闇の中から香りだけが語り手に届いてくるがゆえの「あやなし(無意味な・わけがわからない)」なのであろう。
※和歌読解に関しては『古典和歌入門』(渡部泰明,講談社ジュニア新書,2014,18-21p)を参考にしました。
対して、後藤の川柳では、「これが真相でーーーーす!!」みたいな感じで、真昼間に元気いっぱい、花が花として主張をする。
姿が見えないから香りが強調されているのではない。花が堂々と花としての全容を晒してなお、“薫る”ことに主眼が置かれているのだ。
先の和歌を前提とする…という大胆な読みが許されるのであれば、夜に「あやなし」なんて言われてしまったこと対する、昼間の花からの抗議・弁明…のようなことなのだろうか。
「あやしく(わけわかんなく)ないよ!ほら、これ、俺!咲いてる!」みたいな。(笑)
……それにしても結局、最後の三音が“薫る”なのは、これが昼間の景であってもなお、どこかに「あやなし」感もあるような気がして、その余白に酔っている。
(以下、余談でしかない話。)
“真相はこうだ”ということを、“薫る”ことによって悟らせようとする…みたいなことについて考えていたら思い出したのだけど、
以前、NHKの番組「100分de名著」で、『維摩経』が扱われたことがある。
維摩という在家信者のところに、色んな仏弟子や菩薩たちが集まってきて物語が展開していくのだが、その中の「香積佛品」という話のなかで、別世界から来た菩薩が、「わたしたちの世界ではみんな、仏さまからの教えを、言葉によってではなく、香りによって悟るのですよ」みたいな話をしてた。
なんか、「単に色んな悟り方があるんだねぇ」というだけの読みではおさまらないような皮肉(色々言葉を並べないと悟れないような現世に対する皮肉)も混じってそうだなー…なんて思ったりしたのだけど。
もし、そういう下敷きもこみで句を読み解いていくのだとしたら、別の世界(香りで悟る世界)の常識から「ほら!お前も香りで悟れ!」と無理な要求をされているような理不尽さも、ちょっと面白いなあ…なんて思ったのでした。
※100分de名著、大分昔の記憶なのであやふやだったのですが、大谷大学のHPに割と分かりやすいエッセイが載ってたので、興味ある方はどうぞ
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