朝は来るそれが違憲と知りながら / まつりぺきん 【現代川柳もよんでみたい!】
今回は、【現代川柳もよんでみたい!】シリーズ第二回です。(ついにシリーズ化!?笑)
現代川柳作家であり、投稿連作川柳アンソロジー集『川柳EXPO』の企画・編著者でもある、まつりぺきんさんの句を取り上げさせていただきます。まつりぺきんさん、作品の掲載許可をいただき、ありがとうございます!!
扱わせていただく句はこちら。
中々やばい香りのする句です。(笑)
まつりぺきんさんの、こちらのnote記事で公開されています。↓
(この百句は連作として発表されていますが、今回の私の評では、この句の〈連作における位置づけ〉については言及しません。あくまで「一句評」としてやらせてください!)
では、いきます。
すごい句だ。「違法」でぼやかすのではなく、“違憲”という限定をまず行っている。憲法への違反。
そもそも「憲法」とは、立法機関や行政機関、警察機関、または子に対する保護者…というような「為政者や、なんらかの権力をもった機関・個人による暴走を防ぐための法」。はやい話が、力のある者を縛るための法だ。(軍事力の行使を制限したり、国民の表現の自由を認めたり、取り調べにおける自白の強要を禁止したり、ちゃんと被保護者に教育を受けさせなくてはならない…だったり)
だから“違憲”というのは、単なる「違法行為」とは違う。危ない薬をやってしまっている…とか、そういう話ではなく、もっともっと根本的な、国そのものや、権力の在るべき姿を示しているような法に反してしまっている…ということなのだ。
この句では、“朝は来る”という語り出しに並列される形で、〈何者か〉が、何らかの仕方で憲法に違反してしまっていることを自覚しているという景が提示される。
下五の“知りながら”という言い回しから、その〈何者か〉は、もはやその“違憲”状態を、自らの意志や力ではどうすることもできない(あるいは、どうこうしようとすら思えていない)…というようなニュアンスも感じられ、句全体を通して眺めたときに、ミステリアスで、どこか意味深な雰囲気が残る。……残るのだが、まさにその〈意味深な感じ〉が「雰囲気に過ぎない形でのみ留まっていられるようなところ」に、この句の〈現代川柳らしさ〉を感じるのだ。
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こういう句は、ついつい「朝は来る それが違憲と知りながら」みたく、〈一字空け〉したり、あるいは「朝は来る。」と句点をつけたりしてしまいがちになりそうだが、この原句は“朝は来るそれが違憲と知りながら”と、一息である。だからこそ、読みの幅がひろがっている…とは言えないだろうか。
仮にこれが、「朝は来る。それが違憲と知りながら」という句点を用いた句だった場合、上五の「朝は来る。」で一度景が切れてしまい、中七下五の「それが違憲と知りながら」の〈それ〉が、冒頭の「朝」とは完全に切り離された状態で読まれやすくなってしまう。
その読み方になると、何らかの違憲行為(=それ)をしてしまっている権力者が、「だとしても、また朝は来るのだ…」と独り言ちている景……みたいな、《上の立場に立つ人間にしか分からないような美学》を正当化しようとしている句……とも解釈されかねない。(例えば、その場合の〈それ〉には、現在我が国で「違憲状態」と言われているような「自衛隊」「一票の格差」「同性婚」…などの具体的な問題を代入することができるかもしれない。その上で、「それでも統治者として、国を守るためには仕方がないのだ…」…と、朝を迎える為政者。…みたいな)
もちろん、その読み方が不正解というわけでもないのだろうが、最終的に一息で“朝は来るそれが違憲と知りながら”と語られるこの句の構造から見ると、今示した(ある種、景として想像しやすく、具体性のある)ような読み方をできるだけ封じようとしているような気がした。
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では、その一意に定まらない景は、他にどうやって読んでいく方法があるのだろうか。
ひとつには、〈“朝”を迎えるということ自体が、憲法に違反しているのだ…〉という、「語り手による狂った確信」とも読める。(それでこそ現代川柳的じゃないか!!ちなみにその場合、中七の“それ”には、上五の“朝は来る”が、そのまま代入される。)
語り手は為政者のような強い立場にいる人なのかも知れないし、あるいはまた違う立場におかれている人なのかも知れない。が、とにかく「自らが朝を迎えることは、憲法に反してしまっているのだ」という意識に追い込まれている。
こんな自認をしながら毎朝を迎えるのは辛すぎる。語り手は、“違憲と知りながら”、どうすることもできない。だって、“朝”は誰にでも来てしまうものなのだ。ゆえに、逃れられない自責。
この〈“朝”を迎え入れるということ〉が、ただの「違法行為」ならまだしも、国そのものの在り方を示すような、根本的な法としての「憲法」に反しているのだ…という自意識は余計にエグい。しかもこの語り手は、為政者であるとは限らない。ということは、本来は憲法に守られるべき存在(弱者)であるかも知れないのだ。にも関わらず、朝が来る度に、その憲法からひたすら罪悪感を喚起されつづけてしまう。その自意識の迷妄。読んでいるこちらまで気が狂いそうになる。
一方で、“朝”が擬人化されているという読み方も可能だ。つまり、〈“朝”そのもの〉が、憲法に反するという認識を持ちながら、我々の元へとやって“来る”のである…。
考えてみれば“朝”こそ、最大の権力者だ。地球に住む我々の全てを決定づけている根本であると言ってもよい。朝が無ければなにも始まらない。その“朝”が「おれって違憲なんだけどさあ。来ちゃった。」と来るのである。それならもう、違憲でもなんでも良いから毎日来つづけて欲しい。
今はまだ悪びれずに来てくれるからいいけれど、いつかこの“朝”さんが改心してしまい、「やっぱり憲法守ることにしました!それじゃ!!」なんてことになった日には、我々はどうやって生きていけばいいのだろうか、、、という不安も残される。
いや、……残されるのか?
…と、まあ、後半はちょっと勢いに任せて書いてしまった感も否めないが、そのように、この十七音だけで、瞬時に色んな想像・解釈が可能だからこそ、パッと句全体を見た時には処理が追いつかなくなるような、雰囲気としてのひろがりに圧倒されてしまうのである。
“違憲”という、社会的にちゃんとした重みのある言葉。それをこれだけ軽やかな〈雰囲気に留めておける〉というのは、「現代川柳ならではの詩情」と言えるのではないだろうか。
…以上になります!
うわー、なんか自分でも「ぷはあ!!」って感じ。まつりぺきんさんにも、まだ評の内容そのものはお見せしていないので、ドキドキです。
冒頭、〈連作における位置付けの話〉はしないと言いましたが、まつりぺきんさんは、百句会連作の中でもう一句、憲法を題材にしたヤバい句を詠まれているので、最後にそれだけ引かせていただき、終わりたいと思います。では。