さびしければ小学校の体操を見にゆく / 觀田鶴太郎 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】
不審者じゃねーか!と、一回叫んでからじゃないと、冷静に時代感について考えることが出来なかった。そうだよね、子どもたちが元気に運動してるのとかって、別に普通に考えたら微笑ましい光景だよね…。
現代社会で、いろいろな問題(昔から問題自体はあったんだろうけど)が顕在化してくるようになった中で、抒情の在り方も変わってしまうんだと思う。
絶妙に個人的というか、個別的な仕方で孤独を紛らわそうとしているその主体の景。それこそ、「さびしければラジオを点けてみる」とか、今だったら「退屈だからYouTubeでも見る」みたいな感覚とも、一見近いような気もする。
一方で、そう見えつつも、圧倒的に、元句の方が抒情性に富んでいるように思う。ラジオ・テレビを点ける、YouTube見る…みたいなのって、結局は社会的な感覚でもあって。
この句のように、散歩がてら“小学校の体操を見にゆく”ようなさびしさの紛らわし方は、やっぱりもっともっと個別的で、語り手の人間としての輪郭を感じることができる気がした。なんか、意外と子どもたちからも慕われてたりするのかもしれない。
そう。だから多分、不審者の句ではないはずなんだ。でも、なんか、その「絶妙に実害は少なそうな不審者おじさんっぽさ」を面白いと感じてしまった自分も居る。歪んだ鑑賞だと自覚しながら、ちゃんと歪めてしまいたい(?)感情って、あると思う。単にその時代風な抒情に留めておきたくない、現代人としての読みを大切にする自分も居て、変に揺れるような鑑賞をした。
これが、「さびしければ小学校の遠足についていく」とかだと、流石にやばいだろってなるんだけど、むしろ元句の方が、ちょっとしたキモさが妙に写実的というかリアリティがあるようにも見えて…。
…てか、5-7-5じゃないのに、絶妙に川柳でしかないようなところにも、気持ち悪さがあっていいんだよなあ。「一行詩」って言われるよりも「川柳」って言われた方が断然しっくりきますもん。まあ、しっくりきますもん、って言うか川柳なんだし。