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焼鳥が歯にのこつて──星空 / 觀田鶴太郎 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

焼鳥が歯にのこつて──星空

觀田鶴太郎(1892-1949)


 歯と星空との距離を、罫線で結ぶところが良い。この罫線がつくりだした時間に沿って、語り手は星空を仰ぎ見る。
 おそらく居酒屋から出てきたところなのだろうが、べろんべろんに酔っぱらっているわけでもなさそう。気持ちよく飲んだうえで、歯に挟まった焼き鳥のスジが少し気になるくらいには、ちゃんと自我を保っていそうな人物として描かれている感じがする。そういうところまで想像できるところがすごい。

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 罫線を用いた川柳作品として、以前のnote評で、木村半文銭の句を扱ったことがある。

 觀田の句も半文銭の句も、5-7-5からは逸脱した自由律だが、それぞれの読み心地はかなり異なる。
 半文銭の罫線を用いた句は、(まあ、ちゃんと読み比べると、半文銭の句も、それぞれの作品によって読み心地は異なるがそれでも)飛躍したまま、読み手の《腹落ち》を許さず、いつまでも彼方にあり続ける。
 たとえば「───────水」は、一見写実的な視覚詩だが、この「水」が水溜まりなのか水滴なのかは判然としない。また、縦書きで読んだときの罫線の最上部が繋がる先も不明瞭で、これが実際、蛇口なのか、雨なのか、シャワーなのか、滝なのか、あるいは放尿なのか…なんてのも分かったもんではない。とにかく彼方にある。「黄金の欠伸」の句もそうだ。黄金の欠伸ってなんなんだ?…のままだ。

 小池正博が『はじめまして現代川柳』において「元日 ─────── 暮る」の句に対し

この一本の線は何であろうか。一見すると表現の放棄とも受け取れるが、言葉をそぎ落とした果てにたどりついたのがこの表現なのだろう。

『はじめまして現代川柳』(書肆侃々房,2020,185頁)

 とも述べているように、半文銭の用いる罫線には、一瞬読み手を圧倒してしまうような、突き放しがある。解釈はいくらでも可能だが、読み手は自分自身の読みの力によって、見える像を結んでいかなくてはならない。

 対して觀田の句は、飛躍をしたうえで、生活感にしっかりと着地できるところがいいなと思った。映画のラストシーンを見るような感じで、しっかりと景が浮かぶ。

 また、「────────水」のように、視覚的に景を写実したような句ではないが、それがむしろ〈視覚的な効果〉を生みだしているような気もする。縦書きでみた時に、語り手の“歯”の下に“星空”が置かれているのだ。その一瞬の戸惑いが、より読後の生活的な着地感を心地よい方向に結びつける。

 罫線を使った川柳はこれまで、生活における実感句よりも、芸術としての実験句の方が多く見られるように思う(※1)。だからこそ、むしろ、觀田の句のように、「罫線を用いて、日常に潜む詩情を発見した句」はある意味で貴重なのではないだろうか。解釈が氾濫しないからこその良さもまた、あるはずだ。





(※1)
 木村半文銭の作品以外にも、例えばこんな句もある。

真空─大馬鹿三太郎歯が抜けた

山本卓三太(1893-1966)

 こちらの卓三太の句も明確に解釈を定めたり、景を想像したりすることは難しい。日常的感覚から見て景が浮かぶというよりは、「なんかいい」「なんか格好いい」という、〈伝達的な意味〉を超克した詩情であろう。

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