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どの汽車も胃袋を運んで来たよ / 伊藤愚陀 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

どの汽車も胃袋を運んで来たよ

伊藤愚陀(1909-1932)

これは中々…。
もう現代川柳じゃん。今の。

語尾が「よ」なのも、今っぽい。

人工物がものすごいスピードで、ありありとした臓器を連れてくるようなグロさがありつつ、“来たよ”が絶妙な雑さというか、軽みをもたらしてくれる。

まあ、“汽車”っていうのは、やっぱちょっとその時代だなあ…って感じだけれど。



なんか、「そのままよみ」でグロい景を想像する面白さももちろんありつつ、産業革命以降、一気に資本主義化していった「欲望の世界」に対する風刺・皮肉…というふうにも、読めなくもない。

あの汽車もこの汽車も、汽車という汽車のどれもが胃袋を運んでくる…。
胃袋は、常に満たされるのを待っている。
それが人智を超えたスピードで大量に運ばれてくる。

満たしてやらなければならない。

しかしいくら満たしてやっても汽車はくる。
どの汽車にも胃袋が積まれている。

胃袋のひとつひとつが、我先に満たされようと必死な人々と重なってしまう不気味さ。
五感を支える器官(耳・目・舌…)よりも、脳よりも、心臓よりも、「満たされては消化していく欲望の臓器」に代表されてしまった人々が、汽車のスピードに乗ってやってくる。

あるいは、一人の人間のなかにも、つぎつぎに胃袋を運んでくるための線路が通っているのか…。

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ところで、“運んで来たよ”という響きは、モノローグに近いような感じがする。

この句には、欲望の時代を生きぬいてきた老人が、ある時、自らの人生を振り返るように、誰に向けてでもなく、しかし誰にでも聞こえるような声で呟いたような、不思議な真実味がある。

「どの汽車も胃袋を運んで来たよ」…。と。

そうであれば、“汽車”のちょっと古い時代感も含めて、今現代もリアリティをもって鑑賞することができるのではないだろうか。

聞き手は静かに頷くべきだ。
「そりゃあ、おやっさん、盛りすぎでしょう」なんて突っかかるのはもちろん、「大変な時代を生きられたんですね」と同情のような声をかけてしまうのも、野暮というものだろう。

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