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文学を志す 嗚呼 肺活量 / 山本卓三太 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

文学を志す 嗚呼 肺活量

山本卓三太(1893-1966)

 めちゃくちゃ笑った。まず、“文学を志す”から安直に引き出される“嗚呼”は、「お前文学舐めすぎだろ!」っていうツッコミ待ちだし、しかもその安直さから、いきなり“肺活量”というワードにぶっ飛ばしていくボケ。
 〈詠嘆〉に対する文人や詩人たちの精神性を、全て無に帰そうとするような、身体性のモロ出し。この飛躍は、読者を突き放す飛躍ではなく、誰にでも理解可能な飛躍……つまり、完全なる〈ボケ〉なのだ。

 なんとなく皆が「詠嘆は精神によってするものだ…」と、(ある種惰性的に?)そう思っているような共通の認識を〈発見〉したところが、まずすごい。そして発見した上で、その認識をぶち壊しに来たのだ。それも深刻な皮肉によって刺そうとするのではなく、完全に笑い飛ばそうとしている。

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アゝといふ詩人の口へ星隕ちて

竹林奈良武(1880-1910)

 という、同じように〈詠嘆そのもの〉を題材にした竹林奈良武の川柳作品があるが、卓三太の句には、この竹林の句における壮大な描写とはまた違った良さがある。(※1)

 まさに脳筋文人の出来上がりだ。「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」と言った三島由紀夫(すみません、明確な資料が手元になくてネットから拾って来ました。孫引きです。多分1955年の『小説家の休暇』が元。ちゃんと資料確認したらまた修正します。)の頭イカれたバージョンと言っても過言ではない。(やっぱ過言かもしれない)

 しかもこの句、なんか一見すると自由律に視えつつも、実は5-7-5っぽく読みあげようとすれば、(一応下五部分は一音余るけど)それっぽく読める定型感もある。という……。なんか悔しい。そんな句でした。



(※1)竹林奈良武の句については、下記リンクに評を書きましたので、合わせてお読みいただけたら嬉しいです!

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