河童同志愛の言葉は泡になり / 伊藤愚陀 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】
まず、「河童同士」ではなく、“河童同志”。
「河童である」という“志”をともにしている…ということ?
その次にくる“愛の言葉”という重み。しかも、それが一瞬のうちに“泡”となってしまう。
河童が水の中で言葉を発しても、それはもう言葉としては聞こえず、「ゴボゴボゴボ…」と、泡にしかならない…と言うことだろうか。
「水の泡だ」とか「水泡に帰す」という言い回しがあるように、“愛の言葉”が“泡”になってしまうというのは、僕らからしたら儚く、やるせないことのようにも思える。
だが、“河童同志”の間ではこれはどうなんだろう。もしかすると“愛の言葉”は“泡”となることによって初めて通じ合うのかもしれない。
そもそもこの句においては、わざわざ「泡になってしまう言葉」=“愛の言葉”というように限定されている。
“愛の言葉”以外は普通に言語として届くのかも知れない。
河童さんも照れ隠しで、顔の下半分だけを水につけて、ゴボゴボと言葉を濁しているのかも…とか思うと、突然微笑ましくなってくる。
“泡になり”…そのあと、どうなるのだろう?
河童同志たちの日常は続いていくのだろうか?
“同志”、“愛の言葉”…という重めの言葉が、“河童”や“泡”と結ばれることによって、全体としてここまで軽みを持った詩になる…というのもすごいなあと思った。
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あと、“同志”ってきくと、ついつい一昔前の社会主義運動とかも連想しちゃうんだけど、なんかそういうの皮肉ってる文脈とかもあるのかなあ…?
時代の時系列としてはまったく合ってないけど、連合赤軍の山岳ベースのこととかもちょっと想起されてしまった。
そうなると“泡”も重たいし、“河童”も変色した人間として浮かんできて気味が悪い。
あるいは、赤狩りされることへの同情とか?
一応第二次世界大戦前だし、まだスターリンもばりばり健在で、社会主義が危険視と同時に理想化されていた時代でもあるから、どっちサイドなんだろう…とか。
まあ、そもそもそのことを詠んでるのかどうか自体分からないけど。