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小説『鬼平犯科帳』老中『松平越中守定信の屋敷跡』を散歩
長谷川平蔵が火付盗賊改方長官として活躍していた時代に老中首座(ろうじゅうしゅざ)を務めていた松平越中守定信(まつだいらえっちゅうのかみさだのぶ)についてお話したいと思います。
老中とは、江戸幕府の幕政最高位の役職で、二万五千石以上の譜代大名から複数名任命され、月番制で政務を執っていました。
老中首座(筆頭)は事実上の執政として幕政を主導していました。
ただ、常設ではありませんでしたが、場合によって将軍補佐役として、大老が置かれることもありました。
徳川家三河時代の家政を司った年寄(としより)に由来します。
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松平定信は、八代将軍徳川吉宗の孫にあたります。
徳川吉宗の子、御三卿(ごさんぎょう)田安徳川家初代徳川宗武(むねたけ)の七男でした。
母は香詮院(こうせんいん:山村氏・とや)、生母の実家は尾張徳川家家臣で、信濃木曽を支配し、木曽福島関所も預かってきた家でした。
公家近衛家と縁があり、徳川宗武の正室が近衛家の姫だった為、「とや」は田安家に仕えて宗武の寵愛を受けるに至ったのです。
そして、「とや」は側室となり、定信(幼名:賢丸)が生まれました。
幼少期より聡明で、田安家を継いだ兄の徳川治察(とくがわはるさと)が病弱且つ凡庸であったことから、一時期は後継者、そして十代将軍徳川家治の後継と目されていたとされています。
定信十七歳の頃、陸奥白河藩(むつしらかわはん:現在の福島県白河市)第二代藩主松平越中守定邦(さだくに:久松松平氏)の養子になることが決まりました。
天明七年(1787年)第十一代将軍徳川家斉(いえなり)の代に、徳川御三家の推挙を受けて老中首座・将軍補佐に就任。
幕閣から田沼一派を一掃粛清し、祖父徳川吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕府再建を目指しました。
寛政の改革の主な事業としては、財政再建、倹約・統制、農村の復興、公金貸付、経済の活性化と技術成長促進、大奥改革、棄捐令(きえんれい:生活に困窮する幕臣を救おうと札差から借りた借金の一部帳消、又は低利での年賦償還を命じた法令)を発布、福祉対策、諸役人の統制、教育政策、対外政策等々。
ただ、これらの改革は一定の成果をあげましたが、厳粛で厳しい政策は、幕府はじめ多方面から批判が噴出し、老中を失脚したのです。
老中失脚後は藩政に専念しましたが、文政十二年(1829年)五月十八日逝去、享年七十二歳でした。
辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」。
墓所は東京都江東区白河の霊巌寺(れいがんじ)にあります。
特筆すべきは、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が建議した石川島人足寄場の設置を推進し、田沼政治で歪んだとされる政道を正さんとしたその心意気、しかし、民の生活を把握していなかったことから民衆の楽しみまで奪ってしまうことになり、経済は閉塞してしまったことが大いなる反感を呼んだのでしょう。
ご本人としては、さぞや無念であったと思います。
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松平越中守の上屋敷は八丁堀にありました。
現在の八丁堀一丁目、首都高都心環状線の宝町料金所界隈です。
当時は、首都高速道路都心環状線は、掘割(楓川)で、そこには「越中殿橋」(現在、若干位置はずれていますが、首都高環状線の久安橋がある場所です)が架けられ、その橋は丁度、松平越中守屋敷正面にあたるばしょにありました。
そこには今は、八重洲通りになっています。
![](https://assets.st-note.com/img/1678573158108-TxijtQu4Mb.jpg?width=1200)
ちなみに、下屋敷は浴恩園といい、立派な庭園があったそうです。
その場所は現在の、築地市場跡地一帯にあたります。
戒名は、守國院殿崇蓮社天譽保徳樂翁大居士 です。
従五位下 越中守。
贈 正三位。
白河藩松平家は、久松松平氏。
家紋は『星梅鉢』。
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