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「みんな同じ」に失敗した話

ピアニカのホースに絡まりながら、ぐにゃぐにゃと座り込む息子に
私は「がんばれ!立つんだ!」とは思えなかった。
それどころか、「いいぞ、座っちゃえ!」という気持ちさえあった。

息子の音楽会での話である。

支援級にいる一年生の息子の音楽発表会については
担任の先生からここ数日電話が何度もかかってきていた。

ピアニカだと「吹く」と「弾く」を同時に行うので難しいので
キーボードになるかもしれない。
体育館に響く音が苦手なようなのでイヤーマフを導入してはどうか。
歌の2番が覚えられなくて不安なようなので楽譜を小さく印刷して
持たせようかと思う。
やっぱりピアニカで行けそうなのでピアニカにさせてみる。
などなど。

一生懸命やってくれてるのが伝わってきたので、無碍にできなかったが、正直私の気持ちとしては「周りに迷惑がかからないのなら息子の好きなようにさせてやってくれ」という感じだった。

先生は多分、この音楽会を、息子の人生において、そしてそんな息子の母である私にとっても、とても重要なイベントだと考えている。
母である私は当然「息子の晴れ姿」を見たいのだと思っている。
先生の想像する「息子の晴れ姿」は、「支援級であれど可能な限り普通の子と同じように演奏している姿」である。

電話で話している途中から、そんな食い違いは感じていた。

私は小学校1年生のイベントなんて本人の記憶には残らない親にとってのちょっとしたサービスショットくらいにしか考えていない。
なので息子が楽しく参加できたらそれでいい。
そもそも私が息子を支援級に入れたのは「普通の子と同じじゃなくてもいいから」である。

息子の知的障害は、軽度だ。
正直たぶんめちゃくちゃがんばれば、健常な子の中で「ちょっと出来が悪い子」として過ごすことはできた。
でもそんな風に張り詰めた小学校生活を送ってほしくはなかったから
支援級に入れることを決めて、結果的にはとてもよかったと感じている。
のびにび過ごす息子はすくすく成長したし、無理やりがんばらされていないので学習への意欲もあった。
だから先生はきっとついこう思ってしまったんじゃないかな。

「この調子なら他の子と同じようにできるのでは?」

音楽会本番、息子の顔は冴えなかった。
歌は上手に歌っていたが、ピアニカになると明らかにいらついていた。
何度も吹き口が口からこぼれおち、片手で支えるピアニカはぐらぐら揺れて弾けない。

そして冒頭である。後ろをむいてそのまま、座り込んでしまった。

横にいる担任の先生は必死になだめて、吹き口を口元へ持っていく。
息子は迷っているようだったが、やる気がないのは明らかだった。
「もういいですよ。」
そばに居たら先生にそう言ってあげたかった。
息子はもうがんばったし、先生もがんばった。
あとはもう静かに座ってればいいんじゃないですかね。そう言いたかった。

演奏が終わった後、あきらかに先生はうなだれていた。
息子よりも私よりも落ち込んでいるように見えた。
「キーボードでいいですよ」と私は言っていたから
最終的にピアニカを選択した自分を悔いているのかもしれない。

でも先生がいなかったら、楽譜なしで堂々と歌えなかったし
一長一短なのだ、そこらへんは。
だから私は別に怒っていないし、先生を責めるつもりもない。

でも、食い違いについては丁寧に、伝えてもいいのかな、と迷っている。

学校という場所は「みんなで同じことをやりとげる」をすごく大事にする。
そしてそれで子どもたちみんなが達成感を感じられると思っている。
「先生」という人種にはそういう人が多い気がする。

私は息子とは違い、何の障害もなかったが、「みんなと同じことをする」に関しては大層落ちこぼれだった。
先生はそんな私を一生懸命引き上げては「みんなと同じこと」をさせた。
そして「この達成感、いいでしょう?」みたいな顔をした。
でも当の私はというと、無理やり引き上げられるのは心底イヤだったし
それで何とか「みんなと同じこと」ができたって達成感なんて全然なかった。あるのは「もうしなくていいんだな」という安堵だけだ。

「みんなで同じことをやりとげる」に達成感を感じる人たちを批判するつもりはないけれど、そうじゃない人もいる。
そしてそういう「協調性のない」人が社会性がないかというとそんなことはない。「みんなで同じことをやりとげる」はできなくても「みんなそれぞれ持てる力を出し合って一つのことを完成させる」の一員にはなれる。

もし、私が今の自分に自信がなかったら、息子が「みんなと同じこと」ができないことを怖がったかもしれない。
でもそれを無理やりさせられてきて、嫌な思い出にしかなっていない私は、それに向き不向きがあることを知っている。
不向きの人には、別の向いてるものがちゃんとあるし、それを活かして生きるのはとても楽しい。

息子が座ってしまったとき
先生には申し訳ないけれど、「いいぞ、貫け」と思った。
キーボードだった息子を想像しても楽しそうだけど
それならそれでもうみんな、好きな楽器を好きなように弾けばいいのになぁと思う。

今回、息子と先生の顔を曇らせてしまったのは、私。
もっとちゃんと伝えるのを諦めていなければ、息子も先生も笑って終われたかもしれない。
でもまあ、私も上の子の病気とかで余裕なかったし、このたった数分が一生に影響することなんてないから大丈夫。

とりあえず私だけでも「かっこよかったよ!」って笑顔で迎えてあげよう。
先生に「ありがとう」に添えて私の気持ちをお手紙に書こう。
今はそれが精いっぱい。でもこの1歩はこれで十分。

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