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食べ物の「向こう側」を想像する

今日の夕飯はハモだった。
なんとびっくり子どもたちのリクエストである。

我が家の子どもたちは食べ物に対してどちらかというと保守的で、特に家庭のごはんのおかずに関して新しいものを良しとしない。
ハモも昔我々親たちが食べたくて夕飯に並んだこともあったが、小さくも骨の当たる感触が嫌だったのか、不評に終わった。

そんな子どもたちがテレビでハモの特集を見て食べてみたいと言った。
前述の通り我が家の子どもたちが積極的に新しいものを求めるのは珍しいので、何故だろう?と考えた。
心当たりはひとつある。

私を筆頭に、家族で釣りを始めたことだ。

と言っても例えば「魚釣りを通じて魚に興味を持った」とか「生きている魚と触れて命の大切さを知った」とかとは少し違う気がする。
うまく言えないけれど、おそらく子どもたちは魚釣りを通じて
食べ物のありがたみを感じるようになったのではないだろうか。

我が家の子どもたちは大抵サビキ釣りをしているが、
簡単な釣りと言ってもなかなか大変である。
エサはこぼれるし、糸はからまるし、針が自分に刺さることも。
そうしてようやく釣り上げても多くは15㎝満たない小魚だ。
よく釣れるスズメダイなんかは、せっせと鱗をかいて、大きな頭を落として、三枚におろしても、唐揚げにするとほんと2口分。
20匹釣ったってお腹いっぱいにはならない。

そんな経験を何度もして、おそらく子どもたちは
「食べ物を取る苦労を知った」のだ。

テレビで見たハモは鋭い歯で周りの人の長靴に噛みついていた。
そのようすをみて、子どもたちが口々に言う。
「こんなん釣れても針はずせへん。」
「フィッシュグリップでつかむのも無理やんな。」
「ぬるぬるしてるらしいからすべって噛んできそう。」
さらに捌くシーンになると、一般家庭では到底できない骨切りが始まる。
「でかすぎてまな板に乗らへんやん。」
「この包丁なに??」
「皮切らんで骨切るってすごいなぁ。」
テレビに関する至って素朴な感想ではあるのだが、要所要所妙に具体的なのがおもしろい。子どもたちは、実際に手元にハモがやってきたときのことをとてもリアルに想像している。
想像できるようになっている。

そして、その想像を踏まえて、自分では絶対にできないというリスペクトを以て、飛び出した言葉が
「ハモ食べてみたいなぁ。」
だったわけである。
こんな危険も伴い手間もかかる食材がお金で買えるなら買いたいという気持ちの裏には「尊敬」と「感謝」の念がある。買ってきたハモのふわふわの天ぷらを食べる子どもたちの「おいしい!」はいつもよりちょっと奥行のあるものに感じた。

食べ物を自らの手で得る。
という行動は、スーパーに並ぶ食べ物の向こう側を見せてくれる。
釣りじゃなくて家庭菜園とかそういうのでももちろんいい。
ただ、どうせなら収穫直前までお膳立てするんじゃなくてタネをまくところからやった方がいいと思う。

私が小学校の頃に、田植えをして、稲刈りをして、収穫したもち米でもちつきをするという学校行事があった。
しかし私の年は田植えの翌週に大型の台風が来て、苗は全部だめになってしまった。結局、何の関係もない田んぼにお願いして稲刈り体験をして、全く関係のないもち米を購入してもちつきも行われたが、なんとなくもやもやが残った。「あんなに苦労して植えたのに」というもやもやだ。
そして、そのもやもやは成長に伴い、「あんなに苦労して植えてもたった一日の台風で一年分が完全にダメになってしまう」という恐怖に変わった。
あのときから農家を筆頭とする一次産業へのリスペクトが芽生えた気がする。

正直それまで食べ物に対して「お金払ってるんだからいいじゃん」みたいな気持ちがあった。米粒一粒残して怒られる意味がよくわからなかった。
でも一次産業は、制御できない要素がとても多い。
天候、病気、鳥獣や虫の被害、人間にはどうがんばってもどうにもできないことがたくさんある。
そんなリスクを抱えて、人々の食を調達し、命を支える役割にいる人に対しては、やっぱりお金以上の感謝と尊敬がいるように思うのだ。

「食べ物を無駄にしないようにしましょう」
は正論で、子どもに心掛けてほしいとはもちろん思うのだけど
無駄にするしないの前に食べ物がどうやって来たのか
そこにどんな労力や、リスクがあるのか想像して、
感謝することが「食育」の肝なんじゃないだろうか。
それまでの世話をすべて「誰か」が行った収穫体験や
養殖の川魚を狭い岩場に話して捕まえさせる魚つかみや釣り堀は
手軽だし、喜ばれやすくはあるのだけれど
それだけで終わらせるのはちょっともったいない。
そこの「おもしろかった」を入口に少しずつ体験の枠を増やしてあげたい。

と、えらそうなことを言っても、私はまだ釣りでしかそれをできていなくて
農業ではからっきしだ。(農学部なのに……)
家庭菜園もちゃんとやってみたい。植物をすぐ枯らしてしまう私でも、むしろ、そんな私だからこそ、子どもたちがたくさん学んでくれるんじゃないだろうか。

冒頭で子どもが一度食べた「おいしい」にこだわるというのを書いたけど
これは生き物としてはいたって普通の話で(自然界ではまずい=危険でもあるから)、多種多様な食べ物を求めるのは人間の趣味趣向に過ぎない。タイパ、コスパが叫ばれる昨今、そんな趣味趣向が失われていくのかもしれない。
子どもの子どもに、またその子どもに、私たちはどれくらい多様な食を残せるだろう。多種多様な食が善とは思わないけども、せめてその選択肢がなくなってしまわないように、食の向こう側を想像して、ありがたいって思える習慣を伝えていけたらいいな、と思う。


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