しんり
犬のいる暮らし夏の朝は、日の出前にはじまる。
早朝の散歩はまだ脳が起きていないから、半分寝ている。それが心地よい。
薄ぼんやりした外に出ると、路地は緑のにおいを抱きながら蒸しパンようにしっとりとふくらんでいる。
時折ひんやりした風が肌を撫でるその瞬間だけ、夏を好き〜とかんじる。
カーテンや雨戸が閉まっている馴染みの家々のわきを通るとき、まだ薄暗い部屋ですやすや眠っている人や動物たちのことを思いながら、なんだか彼らを守っているような気持ちになる。
電気のついている部屋が見えるとちょっとホッとするのはなぜかしら。
今朝の犬、公園の木々の根元を熱心に嗅いでいた。
どうにもしつこい。
よそのわんこのおしっこをいつまでも嗅いでるのかと思って引き離そうとしたら、不思議そうに首を何度か傾げた。
「?」と思い私も近づいてみると、静まり返ったその場所から水の流れる音がする。水源はない。
その音は、木の内側から響いていた。
噂には聞いたことがあった。
早朝のほんの短い時間だけ、木々が水を吸い上げる音が聞こえるらしいと。
本当だったんだなと感動する。
清らかで涼しげな水の音を聞いていると、なんにも考えられなくなる(まだ半分寝ているし)
こんなにも健気なのか、いのち。
この木も、いま木に当てている私の手の感覚も、足元で首を傾げ続けている犬も、すべて誰かを通してやってきた贈り物だ。
少し前、宇宙飛行士の野口さんが地球を初めて見たときの感想を「生きている、生きものそのものだ」とラジオで言っていたことを思い出す。
太陽はどうだったかとと聞かれたとき「眩しすぎて怖い。光すぎて、熱すぎて、見てはいけないと本能的に悟ってる感じ」と言っていて、「真理…」と思った。
宇宙で怖い思いをしたことはあったかと聞かれたときには、船外で作業しているときの話をしていた。
頭につけているライトが別の場所を照らしたとき、その光がシュッとなくなり闇に吸い込まれて、どこまでも“なんにもない”がある。
対象物がなければ光はどこまでも闇に吸い込まれていくー その感覚がとても怖かったと話していて、「やはり真理…」と思った。
真理って、どのルートを通っても本当に自由で、
そこに辿り着くまでの道のりにとっても個性が出るように思う。
それは本の中で出会うかもしれないし、一編の詩の中かもしれないし、旅先の景色や、誰かとの出会い。
絵画、うた、音楽、映画…
どこを通っても必ず出会う思想のようなもの。
私はそういう真理みたいなものに出会うとき、砂場でトンネルを掘っているイメージが浮かぶ。
ひとりきりでひんやりとした土を触りながら掘り進めると、向こう側からひょいっと触れる確かなぬくもりと出会うのだ。
かならず出逢うようにできている、そう思えるもの。
心からホッとして、安心して、なにかから自由になれるような。
そんなとき宇宙を感じる。
宇宙を旅したことはないけれど、小沢健二が歌うように日常の中のこの場所こそが宇宙だと思う。
生きているそのなかで、光に目が眩むことはあったし、闇に吸い込まれそうになることも多々あった。
対象物が多すぎて、光さす場所から自分の影の濃さにぞっとすることもあったし、互いに輝きあわせる存在と出逢えて煌めきの中で目を細めるようなことたくさんもあった。
早朝に水を吸い上げる木々の音を思い出しながら、ここにある宇宙を見渡す。
私の身体の中はそもそもいつも真っ暗で、
けれど絶え間なく音は響き続け、熱も光も感じることができる。
そんな宇宙を漂う自我なんて、本当にちっぽけで赤ちゃんみたいな存在だ。
遠く夜空に光る星だって、生まれたり死んだり繰り返されている。
私が「これが自分だ」と思い込んで握っているものも、とっくの昔の光かもしれない。
宇宙の真理に出会えるとき、
私はとても身近なところでそれをみる。