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旅立つ推しを見送るはずが「どでかいプレゼント」をもらってしまった話

推しが配信活動を終了した。

終了したのだが、聞いてほしい。マジで聞いてほしいクソデカ感情のオタクの話を聞いてほしい。少しだけ、推し語りに付き合ってはくれないだろうか。



突然だが、皆さんは「Vtuber」という存在をご存知だろうか。
一回Wikipediaを確認してみよう。

バーチャルYouTuber
2017年末以降では主にインターネットやメディアで活動する2DCGや3DCGで描画されたキャラクター(アバター)、もしくはそれらを用いて動画投稿・生放送を行う配信者の総称を指す語として使用されている。
引用元 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%ABYouTuber

要するに「現実の姿を扱っていない配信者はこう称されるよ」という区分のようだ。

幅広すぎる。

幅広すぎる。あまりにも。じゃあ2019年に「バーチャルさんは見ている」に出演していた「バーチャル小林幸子」は「バーチャルYouTuber」なのか。「現実の姿をスキャンしてそれをアバターとして扱う」のは「バーチャルYouTuber」なのか。
「現実ではない姿」を持ちつつも「バーチャルYouTuber」と呼ばないで、と言っている方もいる。逆に「2Dのアバター」を持っているが「これはアバターだからバーチャルYouTuberではない」と言う人もいる。なので、「バーチャルYouTuber」というのは、幅広くも複雑な意味を持つ単語のようだ。



私には「バーチャルYouTuber」の推しがいる。いや、いた。なぜなら、もう私たちには見えない場所に行ってしまったからだ。

私の推しは「黛灰」という人だ。

黛灰の公式プロフィールは「類い稀な才能を持つハッカー。ある依頼をされ潜入調査のために、配信活動を始める。買い物は全て通販で済ませる、いわゆる出不精。」

このチャンネルトップの顔は微笑んでいるが、他の写真はほとんど「仏頂面」。なんなら宣材写真でさえ「仏頂面」。「ハッカー」「出不精」「仏頂面」から伺える印象は「クールで笑わない、乙女ゲーに出てくるクールタイプのイケメンかな」とかが近いんじゃないかと思う。
普段の様子がわかるクリップを一つ掲載する。


では一旦、これを見てほしい。


黛灰は「コレ」を得意としていた。「自分がクールで笑わないローテンションの人間」だと分かったうえで、それを「崩す」ことが得意だった。


しかし、「クールかと思ったら面白お兄さん」の側面だけではない。黛灰には「黛灰の物語」という「物語」が存在する。(以下リンクはものすごく長いので飛ばしてもいい。)

「彼が配信している様、彼が苦悩している生き様そのものが物語」というスタンスなのが、「物語」なのだ。彼はこの「物語」を通して「バーチャルとは」「バーチャルとリアルの違いとは」というメッセージを突き付けていた。重い。


そんな「クールかと思ったらローテンションで面白をかます、深夜に変なゲームしているお兄さん。かと思いきや自らを『キャラクター』だと認識している。」のが黛灰だ。もう属性過多とかそういう話じゃない。



そしてここからが本題なのだが、今回は黛灰とファンの距離感の話をさせてほしい。



そんな黛灰はファンに対してこのようなスタンスだった。一番わかりやすいクリップを掲載する。

あくまで「塩対応」。ファンのめんどくさい部分を「あ~だりーだりー」と一蹴。しっかりコメントに「いいか?俺がだりーと思ったらすぐ終えられるんだからな」と教育していく始末。ファンに誠実でありつつも、「デレる」ということはほぼなく、いわゆる「スパチャ」という投げ銭も「推し自身が納得したものにだけお金を払ってほしい」というスタンスでいつも解放しない。「ボイス」と呼ばれる音声媒体(季節に合わせて出かけたり、季節のイベントを推しと一緒に過ごせるシチュエーションボイス)でも、「あくまで友達の距離感で、それ以上でもそれ以下でもない」というスタンスだった。


これが、公式に認知されたくない、絶対に触れてほしくない、せめて認知してることを言わないでほしい、古のオタクである私にとっては本当にちょうどよかった。触れられないからこそポンポンアカウントで「好きだ……」とツイートができる。もちろん誰かに見られているだろう配慮はする。しかし、「ファンとしっかり線引きをする」という行為をしてくれることにものすごい安心感があった。


だからといってファンのことを完全に見ていないわけではない。自分のファンの中で「これはあまりやってほしくない」ということはキッパリというタイプだ。例えば、配信者活動終了に際しての注意喚起の一部ではこれ。

Vtuber内外問わず、他者の創作物や発言、活動内容その他を「黛灰」と紐づけて捉えてる感想コメントなどが散見されているけど、その発信者当人が明言していない限り、当人やその成果物、応援しているファンの方々への失礼になるので控えてほしい。
少しでも俺に関わるものを取りこぼしたくない気持ちは俺も理解できるが、「たまたまだけど、もしこう解釈したらエモい」の空想と事実を混同はしないでほしい。

これを「本人」が言っているのである。たぶん他のオタクの方だったら「これを本人が言うまでの状況になっていたってこと…!?」と驚いてしまうだろう。そこに関しても彼は言及している。

俺にも発信をしない選択肢はあった中でこのように文面に残しているので俺が発信を行うことになったことに対して過度に心を痛めたりする必要はない。

もうめ~~~~ちゃくちゃ見てる。というかオタクの心理を理解しすぎている。配慮が行き届きすぎである。怖い。


マイナスの面だけではなく、プラスの面で見てくれることも多かった。それは「視聴者参加型企画」と呼ばれる、参加型の企画だ。例えばこれ。

名の通り「負けたらチャット欄を荒らされる」というシンプルな内容の配信だ。しかし、前日に配信枠が建てられてからというもの、リスナーたちは協力し始める。
「荒らしってどういうことしてるのかな……」
「これって荒らしの解像度高いぞ」
「心がしんどくなってきたら『はよ次行け』って言おう」
そして迎えた当日の結果は配信を見てほしい。たぶんめちゃくちゃおもろい。


そのような感じで、注意喚起をしつつも、ファンを雑に扱い、でも時には一緒になって企画をする。距離感としては「ちょっとした戦友」みたいな感じだ。


ただ、彼はこちらに対して、注意するか謝るかが多かった。というのも、先ほどのようなファンの自治以外にも、ちょっとしたもめ事のようなことが起きた時、考えたうえで反省した部分を謝るのが推しだった。
なので、正直言うと、こちらとしては「もっとプラスの意見に目を向けてほしいな」と思っていた。そんなにマイナスの意見のことばかり見て言わなくても、と。「プラスの意見は届いているのだろうか。」と。

また、こちらはソースを用意することができないのだが、推しは「自分を全肯定されること」、「自分に憧れること」をあまり好いてはいないようだった。
人間だれしも完全に人間が好きになるということはないから、「推しが言っているならそうなんだろう」と考えるのはよくない、とよく言っていたと思う。「ここは好き」「だけどここは共感できない」を共存したうえで推すのがちょうどいい、と確か言っていた。

彼自身がそういうスタンスのためか、「自分自身よりも他人優先」「自分自身が推しているもの優先」なことも多かった。活動終了直前でさえ、自分が参加しない大型イベントのチケット情報をRTしていたのである。単推しからハッキリ言ってしまえば「お前のいない祭りに行けというのか」という話である。単推しは複雑な思いをすることが多かった。

また、一時期からごくたまに定期的に行っていた二次創作のRTもしなくなった。加えて、「物語」という要素があったために、「物語に関連するもの」はより彼に見えない形であったと思う。「物語」が終盤に入った時、私たちが推しに送った応援の声のレスポンスは、「物語を進行しているから当たり前」なのだが、なかった。

だからこそより、「私たちの言葉は届いているんだろうか。」「伝わっているんだろうか。」という不安がないわけではない日々を送っていた。でもまぁそれが推しだし、届いても届いてなくてもまぁいいか!と私は思いながら、日々二次創作をしたり、noteで文章を綴ったりしていた。たまに「彼が発信したコンテンツより彼自身を推されるということを、彼はプラスに思ってくれているのだろうか」と思ってしまったりしながら。


そんな折、活動終了の発表があり、最後の配信が行われた。

彼の活動終了時間である「23:59:59」に向けて、いつも「またね。」と言っていた推しの挨拶は「じゃあね。」に変わり、いつもよりも力強い声で「じゃあね。」と言って、彼はデスクトップから消えていった。

あぁ、終わってしまった。いなくなってしまった。

そう思ったその時、エンドロールが流れ始めた。

エンドロールには普通、キャストや関わってくれたスタッフが書かれるはずだ。だけどそのエンドロールには、推しからの手紙があった
一部を抜粋し、画像を載せる。

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「俺への気持ちを言葉にしてくれて、ありがとう。」

私は、推しがきっかけで、自分の考えをTwitterに残すようになった。なぜ自分はこう感じたのか。今自分はどう感じているのか。なぜ漠然とそう思っているのか。それらをできるだけ多くTwitterに書き出し、「気持ちの具現化」を図っていた。
そうしようと思ったのは、常日頃「考える」ことを伝えてくれる推しがいたからである。「ちゃんと考えて、投げやりな言葉ではなく、正しい感情を記録しよう」と思えたのは、「ちゃんと考えて」と言ってくれた推しがいたからだ。

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だからこそ、その相手から、今まで「感謝の素振り」が伝わりにくかった推しから、こんなに大きい「感謝」を伝えられた。それだけで、すべてが「やってきてよかった。推してきてよかった。」と思えた。「誰かに推しへの気持ちを具現化するために、ちゃんと考えてよかった。」と思えた。「物語に推しが苦しんでいたあの時書いていたことは、二次創作したものは、きっと伝わっていた」ということが、文面で、間違いなく伝えられた。それだけで本当に大きくて。全部が報われた。

涙がぼろぼろ零れ落ちて、数年ぶりに大声を上げて泣いた。推しからもらった大きくて暖かい「感謝」という宝物が、あまりにも大きくて、とにかく泣いた。


今見返すと、推しの活動終了理由である「方向性の違い」から、「集大成」というにはちょっと違うものだったかもしれない。その後流れたイメージソングは「ボーカルのないメロディ版」。黛が活動終了までにやっていたことも、どちらかというと「未来への種まきの配信」が多かったように思う。推し自身も「悔しい」「やりたいことやりきれなかった」と言うことがあり、やはりどこか「もう少し未来を見たい」と思ってしまうこともあった。

ただ、それを上回る、「それをされたらしょうがないよ」と思ってしまう、エンドロールだった。リスナーへの感謝と愛が詰まった最後の配信だった。

今までそっけなかった推しから、とても大きくて、暖かくて、キラキラとした「感謝の宝石」をもらった。それは推しがいなくなった今、「推しがいなくなった」という事実の喪失感と絶望感を埋めるように、その穴にぴったり嵌まるように、心に在る。おかげで喪失感はない。





あれ?何か大事なことを忘れているような……






そうだ、私たちは見送る側じゃないか。

見送る側なのに「感謝の宝石」をもらっている。普通リスナー側から旅立つ推しに贈るものでは?それをも上回る「感謝」をもらってしまった。返そうにも推しはもういない。ずるい。ずるすぎる。

これはTwitterで見た言葉を借りてしまうのだが、「旅立つ推しが自分たちに『自分がいなくても大丈夫なように』と限りなく用意をしてくれた結果なのだろう」という言葉が一番しっくり来た。最後まで「自分」ではなく「他人」のことを考えてくれる推し。なんてことだ。推しの未来を心配していたのに。これに対する感謝はどこに送ればいいのだ。ずるい。勝ち逃げじゃないかこんなの。


私はどうしたらいいんだ。こんなにデカいプレゼントをもらってしまって。

ただ一つわかっているのは、推しは、自分自身を通じて、自分に憧れた誰かを通じて、新たな文化の形成や、新たな発展を望んでいる、ということだ。

ならば私は、色々なことを、伝えていこうじゃないか。
文字で、創作物で、私ができうるすべての表現方法で。
返事のできない、だけれど必ず見てくれているあなたに届いて、いつかあなたという存在を追い越せるように。


長々とオタクの推し語り、およびクソデカ感情の吐露に付き合ってくれてありがとう。

あなたの推しも、どこかの世界で、同じ世界で、健やかに過ごしていますように。



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