食べ物の好き嫌い
食べ物に好き嫌いがあっても、私は良いと思う。
アレルギーがあるとか、体質で受け付けないとか、信条上の理由とかではなくて、単に嫌い。単に食べたくない。おいしくないと思う。というやつ。
今でこそ、そんなにたくさん好き嫌いはないけど、今でも豆(枝豆、そら豆とか)は好きじゃないし、コーヒーは飲めないし、ゴーヤーも苦手だ。小さい子供の頃は、嫌いなものだらけだった。豆腐嫌い。おから嫌い。切り干し大根嫌い。パンの耳嫌い。酸っぱいヨーグルト嫌い。出汁で味付けしてあるような味わいを楽しむもの嫌い。好きな物、豚のしょうが焼き。奈良漬け。
食べられないもの(食べたくないもの)が多いと不自由だろうなと経験から思う。鶏もも肉が食べられないとか、肉の形をしていないミンチみたいな肉は食べられないとか。日常生活に登場しがちなものが苦手だと、あーあ、味つけや、匂い、見た目は美味しそうなのになぁと思いながら回れ右になる。回れ右する食材が多ければ多いほど、寂しい思いをする回数も増える、と私は勝手に思う。
そうでなくて、自分の食べられるものの範囲で食生活を楽しめる人もいると思うので、一概には言えないのは、分かっている。
今、大人という年になって、豆が食べられなくても、あまり困ったことはない。「おいしいよ」と言って出してくれる人には申し訳ないが、食べたくないものは食べたくない。それで済む。
それを食べなければ飢えて死ぬとかいうのでなければ、好きでないものを無理して食べるのは、逆に食べ物に対して失礼かもとも思うようになった。
食べ物の好き嫌いは、自分の好みが分かっているということで、どっちかと言うといい事だと、なんとなく最近思う。
私の父上という人は、何を食べても同じ、と言ったら失礼かもしれないけど、「おいしい」と言いながら、こだわりがないから、何を食べても記憶に残らないタイプの人だ。
「食べられればなんでもいいよ」
なんて、作り手にも食材にも失礼なことを平気で言ったりもする。
どこどこで食べたあれがおいしかった、という話にもついて来れないし(そんなもの食べたっけ?ってなる)、何を作っても「量」とその料理の「雰囲気」が大事だから、料理を見ての第一声が「小さい」「少ない」だったりもする。
父上が料理に求めていることは、ボリュームがあることと、味がしっかりついていること。
一人暮らしをして、食堂で働くようになって、好き嫌い、食べる食べないを考えることが増えた。
父上の食べ物に対する無関心さには、同居していた頃は、なんだかなと思っていたけど、そういう人もいていいのかもなと今は思う。
食べることは、個人的なことだ。食べるも食べないも、その人の自由だ。
ただ、たくさん好き嫌いがあると、食べるものの範囲が絶対的に小さくなるので、新しい味覚や新しいおいしさに出会えないこともある。
食べるもの、食べることへの姿勢で、誰かを傷つけることもある。
食事は楽しい方がいい。
仲良く食べようや、と思う。