人との出会いで分かっていく
子供の頃から、「本当に不器用だね」「何やっても遅いね」「まだやってたの?」等々、母親から言われて育ったので、私は自分が手先が天才的に不器用で、究極に鈍臭い人間だと思って生きてきた。
確かに、人と比べて作業は遅かった。
「○○をやってみよう」みたいなワークショップに家族や親戚と行くと、誰よりも時間がかかった。
「(森うさぎを)待ち疲れた」と親戚に文句を言われたこともある。
上達もゆっくりだ。学校の学期とか、授業の時間とか、決められた期間内にメキメキ上達する人がいるかと思えば、私はいつまでも下手で、上達どころか、できる片鱗も見えないまま終わってしまうことも多かった。
やってもやってもだめ。
だから、あなたは不器用。
そういう意味では、母親の評価も妥当なのかもしれない。
そんな私が最近、自分がそう不器用ではないかもしれないと思い始めた。
それは、仕事で手先の器用さ、丁寧さを褒められることが続いて、そうなのかもと思うようになったから。
私は食堂で、調理補助の仕事をしている。「調理師の補助」という名前だけだと、どういう仕事なのかイメージが付きにくいかもしれないが、食堂の何でも屋さんだ。
食堂の準備、掃除もするし、提供する食事の盛り付け、お客さんへの配膳もするし、その準備段階の付け合せの盛り付けもする。皿洗いもするし、営業が終われば厨房の清掃も、片付けもする。
調理師は調理が仕事。
調理補助は、調理をしないだけで、実質、食堂の仕事は全部やる。時々、包丁を持って野菜を切ったり(下ごしらえ)も頼まれればする。
私の勤務する食堂では、麺の具は全て小鉢に盛りつける。
その時々によって、盛るもの(具の内容)は違うし、盛る量も違う。それぞれの見た目の塩梅も考えて、直径10cmくらいの小鉢に盛り付ける。
それを麺のメニューの時、70から100食分作るのが、私の仕事のひとつ。
「森うさぎさんの盛り付けは丁寧で、いつも美味しそうに見えて嬉しい」
と言ってもらえたのは、今はいない前の所長の時。
けんちんうどんの豆腐が木っ端微塵になり、上手く作れなかった所長が、
「この煎り豆腐みたいな具!」
と嘆く程、豆腐は影も形もない状態だった。
その時は、その具と刻みネギと、白髪ネギを盛るのだったと思う。
具の見た目の配分には苦労はしたけど、私は普通に盛った。
「森うさぎさんって、器用だねえ!」
生まれて初めて、器用だなんて言われた。
その時は「そんなことはない」
とすぐ思ったけど、そんなこともあるかもしれないと、それから時々思うようになった。
私は確かに上達速度が遅い。
仕事も慣れるところまでは、かなり遅かった。
でも、最後に具を余らせすぎず(追加が出た時用、賄い用に少し残す)、同じ量を各70-100個に均等に盛り付け続ける。
今では、全く苦もなくできる。
当たり前にできることを「魅力」、普通にできることを「才能」というらしい。
だったら、私が麺の具の盛り付けを難なく今できているのは、手先が器用ということではないのか。
才能もあるというのではないのか。
母の言う「不器用」という言葉は、私の一部にしか当てはまらないのではないか。
私には「器用」と言える部分もあるのではないか。
親の言うことが全てではないと、頭では分かっていながら、やっぱりずっと言われ続けていたからか、刷り込まれていた。
自分、できるじゃん。
器用にできる、器用だと認めてもらえるところもある。
才能、ある。
ほっとするように、心がポカポカしてくる。
私は自分をずっと「無能な愚図」だと思ってきた。
そんなことないよ! 大丈夫だよ!
心の中の小さな私に言ってあげたい。
なんでも諦めずにやる才能を持っていて、それから器用にやるようになるよって。
人との出会いで、自分が分かっていくこともあるよって。
【今日の英作文】
読書とTVを見る時間を両方作るのには、すごく苦労したのです。
I put a lot of effort into making time for both reading and watching TV.
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