そのものさし、誰のもの?
「そんなの、普通はやらないよ」
「普通に変だ」
「そんなのは、当然だ」
「やって当たり前だ」
思い込みは怖い。
私は「はじめまして」という記事でも書いたように、少し変わったところで日常生活をしている。簡単に言うと、障害者支援施設。様々な困難を抱えた人たちが集まる場所。そこを私も利用者として使わせてもらっている。
均質とか、平均とかがない世界だ。みんな強烈すぎる個性があって、でこぼこな感じ。誰かと協調して何かをするということが難しい人もいる。人の気持ちを読むのが苦手で、空気を読むのも難しくて、ぎくしゃくするようなことを言ったりしたりしてしまう人もいる。
そういう場所において、「普通」とか「当然」とか「当たり前」とかという言葉がそぐわないのは、すぐにイメージできるかもしれないが、施設を使う人が、「普通」「当然」「当たり前」を意識しないかというと、そうではない。むしろ、自分ルールにそぐわないと「普通じゃない!」と拒絶する人の方が多いかもしれない。
この間も、「他人とのコミュニケーションの練習として、あまり話したことのない人にも話しかけてみる」という目的を持ち、唐突感はぬぐえないけど、頑張っている人がいた。そういう行為を、「変だ」と切って捨てるのは簡単だが、親しい人、自分に興味を抱いてくれる人、優しい人、スタッフとだけうまく話せても、世の中は、そうそう優しい人、理解のある人ばかりではない。だから、施設を利用している間に、すこしでもコミュニケーション能力を向上させようとするその人の志は尊いし、すごいことだ。勇気のある行為だとも、私は思う。
私が通所しているところは、うまくいかないことだらけで、社会の中でうまく生きられなかった過去、それらを乗り越えて頑張っている・頑張りなおそうとする人が集う場所だと、私は思っている。
でも実際は、コミュニケーションの練習をする人を、「普通そんなことしない」「唐突におかしいよ」と否定して、笑う人も利用者の中にいるのも事実だ。
雑談のネタにされたその人の努力や勇気をどう思うかは、別に障害があろうとなかろうと関係がないと思う。
そして、「普通」「当然」「当たり前」と感じるようなことは、誰が決めたものでもないということ。「常識」という言葉もそうかもしれない。
誰が決めたものでもない「普通」に、思い込みの「当然」に「当たり前」。どれだけのことが、自分の意思や考えで決めたわけでもないことで、決まり、決めつけられ、切り捨てられてきたのかを考えると、なにもかも、本当は「普通」でも「当然」でも「当たり前」でもないことに気付く。
大事なことは、その人の心のあり方であって、それについてどう思うかを自分で決めることだ。
「普通」も「当然」も「当たり前」も、自分が勝手に思い込んでいるだけ。色眼鏡を外せるか、外して物事を正面から見つめられるか。
知らなかったものや、分からないものは、見れば分かるようになるけれど、見たくないもの、知りたくないものを拒絶すれば、永遠に分かるようにはならない。
「多様な人が、多様な生き方ができるようになる社会」というものが今の世の中いいこととされているし、目指されているけれど、案外自分の足元は暗い。
そのものさし、誰のもの?
その「普通」、誰が決めたの?
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