穏やかに生きたい
私の母は老人介護施設で働いている。
今日は敬老の日だ。普段は日にちなんか関係なく記事を書くけど、今日はあやかってみる。
母の働く施設にこの間新しい入所者(おばあちゃん)があったそうだ。
一日、二日は、ちゃんとご飯を食べて、日中も起きていたけど、それから先は日中はずっとお昼寝してるし、ご飯を全く食べなくなったらしい。このままでは餓死してしまう!
それで「ゼリーなら、食べてくれるかもと思って、食べてもらった」と、母は言う。
私はその話を聞いて、介護の門外漢ではあるけど、辛い話だなと思った。
介護する施設側は、おばあちゃんを預かっておいて餓死させたなんて本末転倒だし、絶対あってはならないこと。
「ゼリーは食べてもらう」
という発想になるのは、仕方がない。
でも、もう100歳近くになって、自分の意思とは関係なく住む場所を変えられて、ストレスじゃない方がおかしい。
住む場所や施設を変わるというのは、周りの環境、人の感じ、物事が進む時間、食事の内容、あらゆることが変わってしまうことだ。
ハンガーストライキみたいな反抗心がなくても、環境の変化について行けず、寝てしまうとか、食べたくないとかいう反応は、至極当然で、ストレスの現れだと私は思ってしまった。
食べたくない。起きていたくない。
なんとなくそのおばあちゃんに親近感を抱くのは、おばあちゃんの逃避行動に、随分年の離れた私でも経験のある事だからだ。
私は学校というものになじめない子供だった。一応どの学校も卒業しているけど、不登校気味だった時期がない学校はない。時々息継ぎをするみたいに、1週間とか、2週間とか休んで、学校へ行く。皆勤賞なんて、目指したこともない。 考えたこともない。皆勤賞を誇る他の子を、すごいと思ったこともない。
高校の時もまた、かなり頻繁に休み、母をやきもきさせた。中学までは義務教育だから卒業できるけど、高校は違う。出席日数が足りなければ、卒業できない。実際かなりギリギリの日数で卒業したらしい。
母が焦れば焦るほど、私は学校に行けなくなり、ぷつんとなにかのスイッチが切れたみたいに、一日中寝ていた。夜は10時くらいに寝て、夕方の5時とかに起きる。ひたすら寝る。当然ご飯なんか食べない。
学校行かなきゃなと思うけど、母の苛立ちや八つ当たりに出会うほど、なにもかもが苦しくて、ただひたすら寝て、現実逃避していた。
施設のおばあちゃんの話から、かなりズレた。
おばあちゃんの日中寝て過ごすというのは、私が断言できるようなことじゃないけど、ストレスやその疲労を言外に体が現しているのではないのかなと思った。
現在は、医療も発達しているし、介護の世界も進んでいる。ご飯が自力で食べられなくても、他に生きる方法がある。
生きたい人は、どれだけでも(とは言えないけど)生きたいと表明することができるし、本人はそう長く生きたくなくても、家族や周りは、純粋にできるだけ長く生きていてほしい。できるだけのことしてあげたい。死ぬなんて寂しい。
でも、疲れたりストレスを感じるのに、年齢は関係ないし、休みたくもなるし、ご飯だってもりもり食べたいとは、思わないかもしれない。
介護者としては、それは問題行動であって、食べない人には、仕方がないからゼリーを食べさせる。
生きる生きないってとても個人的なことだし、自分の意思決定によるものが一番重要なことのはず。
おばあちゃんが餓死していいとは思わないけど、おばあちゃんの穏やかに生きたい気持ちはどこにいったの? と思ってしまう。
疲れたら休んだりして、穏やかに生き、穏やかに自分の人生を締めくくりたい。そんなことがとても難しい。
不登校のとき、「起きなさいよ!」と顔に水をかけられたことがある。それでも起きて学校に行く辛さと、寝ている辛さを考えると、思考停止に陥って、結局起きられなかった。
穏やかに生きたい、生きていくって、こんなに困難なことだっけ? そのおばあちゃんの健康が一番大事だけど、生き方もまた大事だと思う。
老を敬う日だからこそ、生きるということを考える。
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