「直される」。プロになる為の経験ー雑事記⑭ー
学びながら。働きながら。
幼少期から30代後半の現在に至るまで、ずっと絵を描き続けてきた私の失敗や煩悩を脈絡なく書く『雑事記』第14回。
今回は、作品を「直される」経験について。
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作品をつくる人のプロ・アマの線引きがどこかという問題には、色んな意見がある。例えばその収入で食べていけるのであればプロだとか、依頼された内容に沿ったものが描けるのがプロだとか。またはもっと主観的に、完成度が違うとか、観る・読む人の目を意識しているか否かの差であると語る人もいる。
そんな中で私があえてひとつ挙げるとすると、作品を誰かに「直される」ことを受け入れられるか否かが、プロ・アマを大きく分ける差だと思う。
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私が生まれて初めて自分の絵を正面から「否定」されたのは、高校受験の時だ。中学までは、絵を描くのが得意であることを自負しており、周囲からもそう思われていた。その自信を胸に美術科の高校を2校受け、私立は受かったが、第1志望の公立には落ちた。
あれはショックだった。倍率の高い学校なので余裕綽々とまでは言わないが、それでも、ある程度の確率で受かる期待も持っていた。実技試験は石膏デッサンだったが、出来栄えもそんなに悪くなかったと思った。試験のために美術研究所にも通っていたし、その公立美術科の卒業生でもある中学の美術部の先生から、個別指導も受けていた。
自分の受験番号が飛ばされている合格発表の掲示板を呆然と見つめたあと、数時間私は行方をくらまし、連絡を待つ母を心配させた。
もしあの時あっさり公立に受かっていたら、私はもっと増長した嫌なタイプの作家になっていたかもしれない。思えば、研究所でも部活でも、中学までの私はほとんど自分の絵を直される経験がなかった。基本的な技術は備わっているとおそらく判断され、そのまま描き進めて完成させること、完成度を上げることが主なアドバイスだった。今ならわかるが、中3という精神的に難しい時期、且つ私の性格的に、変に直すと絵がぐちゃぐちゃになると先生たちに思われていた気がする。単に、頑固そうだからそっとしておかれただけかもしれないが…。
しかし絵の道はそんな甘い世界ではなかった。
高校は自由な雰囲気で講評会もだいぶ緩かったが、再び受験の時期になり、中学の時とは別の美術研究所に通い二浪、三浪の猛者たちと並んで講評されながらかなり辛辣な評価も受けた。
美術指導で「手を入れる」というのがある。制作中、先生たちが時々アトリエを見てまわり、気になる部分を個別でアドバイスするのだが、口で説明が難しい場合は、生徒の持つ描画用具を
「ちょっと貸して」
と先生が言う。すると生徒は黙って席を立ち、先生に椅子を譲って作品の気になる部分を手直しされる様子を後ろで見守る。
最初の頃、私はこれが嫌だった。
自分の作品は自分だけのものというプライドがあった。例えデッサンであっても、先生の手が加わってしまったらその時点で「もう自分の作品ではない」と潔癖に思ったこともある。実際、興に乗った先生がうっかり「描きすぎる」こともあるのでまんざらその考えは間違いばかりとは言えないが、ほとんどの場合、先生も匙加減をわかっているのである程度の道筋を生徒に理解させたら
「ほい」
と描画用具を返し、ふらっと去って行く。
先生が手を入れた作品をまじまじ見ると、当たり前だがうまい。少しの時間の少ない手数で、画面全体がぐっと引き締まっている気がした。しかし、本当はその領域に自分だけの力で到達したかった私はやはり悔しかった。口だけのアドバイスなら「この子は言えば自分でそこまで描ける」と思われていて、「ちょっと貸して」は敗北。
そんなジャッジを勝手に自分の中で持っていた。
しかし、毎日毎日絵を描いて、何度も何度も手を入れられて、主観が邪魔する自分の作品だけでなく、他の人の作品を先生がどのように評価し、それに対し自分はどう思ったかなどを積み重ねていく中で、私は少しずつ変わっていった。
先生に「ちょっと貸して」と言われても不満に思わなくなったし、敗北とも思わなくなった。そこには信頼があった。自分の作品を誰かの色に染められるのではなく、
「本当は、こういう色を使いたかったんじゃない?」とか、
「ここの表現は、もっとこうした方があなたの描きたいものに繋がるんじゃない?」
という、きっかけをくれる行為だと思うようになった。もしそれが違うと思えばまた自身で直せばいいし、少なくとも、どっちに進めばいいかがわからず煮詰まっている時に
「あ、その表現は自分は求めてなかった」
という選択肢のひとつを先生が消してくれた、と思えるようになった。
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作品に手を入れる行為を邪道だと思う人もいると思うが、私は、作家としての成長過程では必要な経験だったと思っている。画家の場合はそれが、自分の名で作品を公に発表するようになって以降もずっとそれではまずいが、私が今、主に取り組んでいる漫画の仕事はプロになって以降も常に編集者や依頼主に「直される」ことと共に歩んでいる。
誤字・脱字などは当然の指摘だが、それ以外の表現面でも、自分のこだわりと、読む人の感じ方、一般的な文法などを総合的に判断してもらうと作品の質がぐっと上がる。下書きや初稿で一発OKをもらえると嬉しいが、でも、直しを加えて熟考したものの方が結果的に良かったと思うことも多い。
直しも、学生の頃とは違うので問答無用に直されるのではなく、
「ここはこの表現だとちょっとこう思いますが、どうですか?」
と、あくまで判断は私に任せる、直し方も任せるという場合が多い。仮に直し方を提案されても、自分が納得いかない場合は全く別のウルトラCをひねりだして
「こんな感じはどうでしょう?」
と修正案を出す。それを、
「めっちゃいいじゃないですか!!これで行きましょう!」
と絶賛されると、一発OKより遥かに嬉しい。
今、頑張って書いている原稿がある。かなりの長期戦なので何度も自分で読み返して直して、見てもらっている人から意見ももらい、また直している。初稿と今とでは全く作品の内容が変わってきていて自分自身も驚いている。
相手からも、
「だんだん方向性がはっきりし、濃度が濃くなりましたね」と言われた。
やる気満々。
秋の夜長に、さあ書くぞ。
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今週もお読みいただきありがとうございました。
書きかけの作品がある幸せ。
◆次回予告◆
『ArtとTalk・51』最近行った美術館の話
それではまた、次の月曜に。
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