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「どうにもならなさ」を受け入れられない人は何も変わらないし、変えられない。


どうも、うさみしんごです。
「どうにもならなさ」を感じたことはありますか?


お金で何かを諦めたり。
才能で何かを諦めたり。
理不尽な出来事で心を痛めたり。


世の中には「どうにもならないこと」がたくさんありますよね。


でもね。
「どうにもならなさ」を憎んでも仕方がないので。

きちんと受け入れていった方が最終的にはラクだと思うんですよね。



今回はそんなお話。

「理想の姿」は存在していない、という事実。

少し遠い話題から入りますね。


「こうだったらいいな」「ああだったらいいな」という理想の姿。


これは「現実には存在していない幻」です。


結婚したら楽しいことも悲しいことも分け合って暮らして「いけたらいいね」

政治家は国民のために自分を犠牲にしてでも活動する「べきだ」

仕事がデキて周りに認められるように「なりたい」


とかね。


理想というやつは、その時点では存在していない「こうだったらいいね」「こうなったらいいね」というイメージでしかないんですよね。

理想だけではなく目標とかも、その類です。



未だ訪れていないから未来であって、現実にはまだ存在していないんですよ。



更に言えば「理想の姿」と「実現可能な姿」は全くの別物です。

理想に溺れて沈む人。

ここからが本題です。
「理想」と「実現可能な現実」が、まぜこぜになってしまう場面が生活の中にはよくあります。

例えば。
営業成績の未達を責める上司。
納期を守れずに自己嫌悪している会社員。
予算ではどうにもならない性能の家を欲しがる夫婦。
よその家庭の子育てを責め立てるご意見オバさん。


全部、理想を見てるんですよね。


「現実の境遇において、その物事がどこまで実現可能なのか?」ということをスルーしているんですよ。



営業成績の未達は市場の要因かもしれないし。
そもそも、営業のやり方自体を会社がフォローしていなかったのかもしれないし。


納期を守れないのも仕事のボリュームが処理能力を超えていたからかもしれないし。
会社に余計な処理手続が残っているからかもしれない。


マイホームも子育ても。
家計の状況や家庭の負荷によっては、そもそも理想の実現は困難。


でも、それは個人が悪いのではなくて社会の構造に大きな理由があるのかもしれないし。
運の要素も大きかったのかもしれない。


という感じで。



理想だけを追いすぎると現実が見えなくなるんですよね。

できてなければ全てバツ。
その事情は考慮しない。

故に何も変わらないまま、出来もしないゴールを目指して条件も整えずに走り続ける。
だから、ゴールに到達するための進歩はない。


何かしらの対処をすれば、少なくとも今よりも良い方向に変えられたかもしれない現実を蔑ろにして。

理想だけを見つづけて、いつまでも現実が変わらない。



そして、いつまでも埋まらない理想と現実のギャップだけを突きつけられ続けて、いずれ破綻していく。


理想に溺れる人はこういう形で沈んでいきます。

どうにもならなさ、という可能性。

「どうにもならなさ」を受け入れることで現実に注意を向けやすくなります。


さっきの例から抜き出すと。

例えば営業成績の未達を責める上司。

営業成績未達だったことを「受け入れて」要因を探すことにしたとします。

すると、実は市場の落ち込みの影響が未達も「仕方ない」くらいに大きかったことがわかり。


市場が落ち込んでいたのは「個人の努力ではどうしようもないこと」なので、他のことで対策を立てる必要があると気づきます。


対策方法は営業の活動により売上を確保することとしたとして。


達成に必要な営業量と質を検討して「今いるメンバーで実現可能か」検討をしてみると?


今のメンバーから期待できる営業の質・決着率では目標達成をするために必要となる営業量は「現実的ではない」件数になる。


ならば、まずは「目の前の成績に優先させて」でも「現実に」動けるメンバーの数で目標達成できるところまでメンバーを教育。

営業の質を高めて決着率を上げる。


それによって「今後は目標達成が現実的になる」ところまで状況を変える。

そして、来月からの売上で補填を目指す。


こんな感じで「どうにもならない中でどうにかなることを変えていく」というアクションを取ることができるようになるんですよね。


「理想通りにいかないことを否定して、現実を変えるためのアクションをしない」と「理想通りにいかないことを受け入れて、現実を変えていけるアクションができる」の差は積み重ねるほどに開いていきます。



結局、理想の姿なんてものは存在しないまやかしなので。


少しでも理想の姿に近づきたいのなら「今、目の前にある現実を実現可能な範囲で変えていく」しかないんですよね。


理想を見るほど、理想の実現から遠ざかり。
現実を見るほど、理想の実現に近づく。

そんな皮肉な話です。

あなたはどちら?

ここでひとつ問いかけ。


あなたが普段見ているのは「理想」ですか?
それとも「現実」?


なお、自分には実現できないことに対して「こうでなければならない」「周りの人はできているのに」「こうなるべきだ」「普通は○○だ」と思う方は現実よりも理想に目がいっています。

「できていない現実」を見ていないでしょう?


でも、それは別にその人が悪いわけでもないんですよね。


周りが求めるから。
教育がそのように求めてきたから。
そして、社会が基準として示すから。

「理想のようにあらねばならぬ」と思うのですよ。


でも、全部が全部、受け入れる必要のあることでもなかったりもします。


もしかしたら
「必要と思い込んでいるだけ」かもしれないし。
「結果として必要でもやり方は他にある」かもしれないし。
「別にできなくても大した痛手にならない」のかもしれない。

更に言えば「時と場合」で、現実ベースで動いているのか、理想ベースで動いているのか、も変わります。


家計は現実を見て管理している。
でも、子どもの躾は「周りは」「普通は」「できるべき」と理想を見ている。


自分の仕事は現実を見て管理している。
でも、部下の指導には「俺の時代は」「お前の同期は」「KPIは」「〜だから、できるべき」と理想を見ている。


普段はパートナーの負担を理解して助け合っている。
でも、睡眠不足や子育てのストレスで「よその家は」「私の実家では」「世の中の普通は」「〜だから、できるべき」と理想を見ている。



そんな感じ、時と場合で、ものの見方が行ったり来たりする方が「普通」の話なんですよね。

どうにもならなさの二面性。

「どうにもならなさ」は厳しくもあり、優しくもあります。


切り捨てること・諦めにもなりますし。
できないことを認める救いにもなります。


諦めという怠惰にもなりますし、逆境を受け入れる強さにもなります。


だからこそ使い方に注意が必要です。

「諦める」ことには悪いイメージもありがちで自分や周りが「どうにもなりません」を認められないシーンもよくある話です。


でも、結局のところ。


変わらないこと、変えられないことを諦めて。
変わること、変えられることで動いていく。


自分が動いて現実を変えるなら、このやり方になるんですよね。


そして、この割り切りができたら、たぶん気持ちもかなりラクになるんじゃないかなと思います。

「できない」は「自分が悪い」ではなく「条件が悪い」のだから自己嫌悪は不要。

その上でまた「できない」「仕方ない」現実を踏まえて、やれることをやっていく。


その結果、現実は着実に良い方向に変わっていきます。


私も休職・退職レベルでメンタルやらかしていますが「どうにもならないこと」を割り切れるようになって、すごく気がラクになりました。

気持ちがラクになって、現実を受け入れられるようになって、ようやく気持ちと身体が動くようになりました。


とりあえずグダグダと話しましたが。

結構、良いこと言っているとは思うので。



うまいこと取り込んでもらえたら嬉しいです。


ではー

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