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創作小説

*性的描写が少し含まれています。苦手な方は、ブラウザバックすることをお勧めします。

オリジナルよりも性的描写は省略されてるので、大丈夫な、筈……


『懺悔』

        

鳴り響くサイレンの中、スマホが震えた。見てみると、以前、酔った勢いでインストールしたマッチングアプリからの通知だった。開くと私に「いいね」をくれた人がいるみたいだ。趣味が悪いな、と思いながら届いたメッセージを見る。
『こんにちは。会えませんか?』
 性欲が見え隠れする文章に嫌気が差す。ブロックしかけて、待てよ、と思った。仮にここでそうしたとすれば、私は三時間後に孤独に死ぬかもしれない。皆は愛する人や家族に囲まれているのに。
 会ってみてもいいかもしれない。良い人かもしれないし。駄目な人だったら逃げればいいだけだ。当日会った人に抱かれるなんて、今までに何度もあったじゃないか。私はもう処女ではないし、田舎者でもない。トーク画面に戻って返信を打つ。
『こんにちは。死ぬまで時間もないことですし、待ち合わせ場所を決めましょうか』
 このアプリは電話番号やなにかのIDを交換することは禁止されている。全部このアプリ内で完結させなければいけない。相手からの返信はすぐに来た。やはり、相手も急いでいるんだろう。サイレンの音がだんだん聞こえなくなった。
『そんな地球が終わるみたいな。隕石が衝突する確率は五分五分でしょ?』
 なんて悠長な人だ。私は思わずため息を吐いた。地球が終わるかもしれないってときに、なんでそんなにゆったりできるのかが理解できない。せっかちで心配性な私とは根本的に合わないかもしれない。サイレンの音は私を急き立てているように聞こえる。こうやって悩んでいる時間も惜しいと思った。
『待ち合わせ場所はどこにしましょう』
 相手の話を完全に無視して会話を進める。位置情報からすると同じ東京都内のはずだ。二十三区内だといいのだけれど。
『新宿のSuicaの銅像前なんてどうでしょう?』
 新宿か…確か隕石衝突に合わせて、電車は全部が自動化されているから動いているはず。新宿ならラブホテルも多いはずだし。20分くらいで着くと思います。と返信を打って化粧下地を塗った。ファンデ―ション、アイシャドウは飛ばして、眉をかいてリップを塗り、財布とスマホを持って家を出るともう8分経っている。女は準備が長いから嫌だ。鍵も開けっぱなしで駅に向かって走り出した。

『どんな服装ですか』
『ジーパン、白のシャツ、グレーのパーカー、です』
 信号待ちの間に送るとすぐに返信が来る。やっぱり暇なのかな。私みたいに地球が終わるとなっても一緒に過ごす人がいない悲しい人なのかもしれない。ぼんやりとしていると信号が青になった。カッコウの鳴き声につられて私はまた走り出した。

 新宿駅はいつもみたいに人でごった返していることはなく、実家の田舎のように閑散としていた。懐かしみとともに少し、嫌悪を感じた。少し歩くとSuicaの銅像の前にたどり着いた。木陰から見てみると銅像前にに立っているのは一人しかいない。多分彼が、彼だ。そういえば彼の名前を知らないことに気づいた。ハンドバックからスマホを取り出して、彼とのトーク画面を確認する。さとし、上の方に書かれている。さとし、さんだろうか。聡、智、智史…頭の中でいくつか漢字変換した。そして、さとしさん、と口に出してみた。慣れない名前を読んだせいか、少しドキドキした。私は今から目の前に見える白シャツにグレイのパーカーをはおり、ジーパンをはいたあの人に声をかけるのだ。目線を下げて自分の服装に違和感がないか見てみた。緑のスカートに白のブラウス。ちゃんと二十四歳に見えるだろうか。大学生の時に買った服装できてしまった。あと二時間半一緒に過ごすかもしれない相手に適当な服装でいいのか。でもどうせ脱ぐのだからいいか。
 手の中のスマホが振動した。見るとさとしさんからメッセージが届いている。
『着きました?』
『着きました。こちらもさとしさんを見つけました。今声をかけます』
 息を少し吸って、吐いて。私はさとしさんと思われる男性に近づいた。「さとしさん、ですか?」
 恐る恐る声をかけると相手も怖々と振り返った。
「はい。そ、そうです」
 顔は可もなく不可もなく。中の上辺り。ここまできておどおどしているのは少し欠点かな。服に変な皺もないし、ある程度の清潔感。よさげな人だ。そこまで考えて、いつの間にか相手の格付けをしていることに気が付いた。死ぬまで一緒に過ごす相手かもしれないのに。
「あきね、さんですよね? 本名ですか?」
 私は頷いた。相手はほっと息を吐き、笑顔になった。
「さとし、奥村悟です。さとるって書いてさとしと読みます」
 漢字変換は間違っていたみたいだ。悟はさとしと呼んだっけ、と思いながら私も奥村さんに名乗った。
「久世秋音って言います。あきのおとで秋音です」
 奥村さんはふんふんと頷いた。良い名前ですね、と呟いてベンチに座ろうとした。私は慌てて奥村さんを止める。
「え? ホテルいかないんですか?」
 奥村さんはぽかんと私の方を見た。
「なぜですか? そりゃ、貴女のことは抱きたいですけど、他人は抱けなくないですか?」
 奥村さんはふぅと息をつきベンチに座る。そして優雅に持っていたペットボトルのお茶の口を開け、喉を鳴らして一口飲んだ。私はハンドバッグからスマホで時間を確認する。隕石衝突予定まで残り二時間二十分だ。
「お互いを知るのは、ホテルに行ってからでもいいんじゃないですか? 今日みたいな日に開いてるホテルがあるか分かりませんよ?」
 私がそう言うと、奥村さんはにこりと微笑み、それもそうですね、と言った。もしかして私は性欲が強い下品な女だと思われているだろうか。自分でもなんでこんなに奥村さんをホテルに誘っているのか分からなかった。ただ、焦っているだけなのかもしれない。たぶん、そう。
「ホテルは待ってる間に一応調べときました。ここから歩いて5分くらいのところに、全自動のラブホテルがあるみたいです。なので、多分開いていると思います」
 だいぶ疲れてるみたいですけど大丈夫ですか、と聞く奥村さんに私は頷いた。ヒールで走ったせいで少しつま先が痛かったけれど、五分くらいなら歩ける、と思う。先を歩きだす奥村さんについて私も歩き出した。
「改めまして、僕は奥村悟って言います。歳は二十六歳で、普通の、エンジニアしてます。院を出たので、まだ社会人二年目です」
 普通の人だ。マッチングアプリはこんなにも普通の人もやるんだと思った。もっと怪しい情報商材を売りつける人か性欲まみれの人ばかりしているものだと思った。
「初めまして。私は久世秋音です。二十四歳で、事務職をしています。大学を卒業して、働きだしたので私も社会人二年目です」
 奥村さんは車道側を少しゆったり歩く。女の私に気を使ってるのだろうか。それとも彼の歩みが普段から遅いのだろうか。
「奥村さんは……なんでこんな日にマッチングアプリなんてしてたんですか?」
 そう聞くと奥村さんの歩調が少し弱まった。考える素振りをしながら私の方を見た。
「一人が、嫌だったからですかねぇ」
 まともだ。奥村さんはおどけた調子で両手を振った。
「ほら、こんなアプリやってるくらいだから、恋人もいないし、親は死んだし、友達もいないし。あー……自分で言ってて悲しくなってきましたね」 奥村さんは眉をハの字にして悲しそう顔をした。良い人そうなのに。
「あきねさん……久世さんはどうしてマッチングアプリなんかを?」
 奥村さんに聞かれて少し悩んだ。
「奥村さんからの、通知が来たので」
 少し速足気味で奥村さんのとなりを歩く。時間は無駄にはできない。いつものように明日は来ないかもしれないのだ。奥村さんもつられて歩調が速くなった。ちょっと安心した。ゆっくりしてたら時間が無くなる。
「なら勇気を出してメッセージを送った甲斐がありますね」
 奥村さんは顔を少し赤くして笑った。

「ここです」
 奥村さんが見つけたホテルは綺麗な普通のラブホテルだった。謎のモニュメントを傍目に液晶パネルの前に二人で立つ。
「何か部屋の希望はありますか?」
「いえ、特に」
 奥村さんは手早く画面を確認した。手慣れてるな。別にそれはいいのだけれど。途端に何か底知れぬ不安感に襲われた。
「宿泊でいいですよね?」
 奥村さんは私にそう聞いてきた。スマホを確認する。隕石衝突まで残り二時間十五分。
「全然大丈夫です。でも休憩でいいんじゃないですか? あと二時間ですよ?」
 奥村さんはちょっと悲しそうな顔をした。
「いいじゃないですか。死んだらどうせお金は払わなくていいですし、生きてたら宿泊のほうがゆったりできますよ。多分、明日は休みでしょうし」
 家に帰りたくないんだろうか。一応財布の中には一万円札が二枚ある。なにかあっても大丈夫だろう。奥村さんに頷いた。奥村さんは手早くパネルを操作する。少ししてパネル下の取り出し口から部屋のカードキーが二枚出てきた。
「二〇二号室ですね。エレベーターはどこでしょうか」
 二人でフロントを少し歩き回ると、奥に観葉植物に隠れるようにしてエレベーターがあった。
「なんか、意地悪なホテルですね」
 奥村さんはふふっと笑いながらそう呟いた。
「そうですね」
 私も笑い返し、エレベーターの昇るボタンを押した。
「久世さんは、ホテルには何回か来たことがあるんですか?」
 私は一瞬焦る。確かこういう時初めてだと言った方が喜ばれるはずだ。でも、たぶん、もう手遅れだし。私はおとなしく頷いた。
「そうですか」
 奥村さんの声音が少し冷たく聞こえた気がして私は慌てて奥村さんを見る。
「いや、でもあまり来たことはないです。ここに来るのも初めてですし」
 チンと音が鳴って目の前の扉が開く。暗いフロントに比べて、煌々と照るエレベーターに一瞬たじろいだ。
「ちょっと安心しました。こんなこと、言うのはアレですけど、処女が来たら、僕、抱ける自信なかったので」
 奥村さんははにかみながらそう言った。処女。酷く神聖な言葉に聞こえる。エレベーターの中に入ると奥村さんが②のボタンを押した。値段の安い②と③のボタンだけ、文字が剥げている。
「奥村さんは、趣味とかあるんですか? 」
 無難そうな話題を振る。
「映画とか読書とか? でも、特にないですよ。休日も部屋の掃除して、ぼーっとしてたら終わるって感じなので。久世さんは?」
 私は少し悩んだ。その間に微かな浮遊感があって、チンという音ともにエレベーターの扉が開いた。
「私は料理とかします」
 奥村さんはエレベーターの扉を抑えながらにこりと笑った。
「いいですね。得意料理は何ですか?」
「オムライスとか、ですかね」
 エレベーターから出て目の前の壁を見た。そこには二階のフロアマップが掛けられていた。部屋は二〇一から二一〇まであるみたいだ。廊下を見通してみると左手に茶色の扉が並んでいて、間接照明に照らされていた。
「僕は自炊が苦手なので羨ましいです。じゃ、行きますか」
 角から二番目の部屋に向かった。金色で202と書かれている扉のノブを奥村さんが押すと、ガチャリと音がしてドアが開いた。肩越しに部屋をのぞくと、大きな白いベッドが見えた。紫の間接照明に照らされたそれは、海に漂ういかだのようだ。壁に時計がかかっているのが見えた。二時間十分、と頭の中ですぐに計算できて、中毒みたいだと思った。
「良さげな部屋ですね」
 奥村さんはそう言って左手にあったドアを開ける。
「ここが、トイレで…」
 そしてその隣のドアも明ける。
「こっちがお風呂ですね。ドライヤーとジェットバスもあるみたいです」
 奥村さんはそこまで説明して、部屋に入っていった。私もドアを開け、マジックでタネを確認するように中をのぞく。特に変なところはない。一般家庭より大きなお風呂、と大きなトイレ。ベッドを確認すると、奥村さんが大の字で俯せに寝そべっている。
「何、してるんですか?」
 皮肉に聞こえないように気をつけながら聞くと、奥村さんは慌ててベッドから体を起こす。
「あ、すみません。大きなベッドを見ると寝そべりたくなってしまって。お風呂にも入ってなかったのに、汚いですよね」
 奥村さんはバツが悪そうに頭を搔いた。私は微笑みながらベッドにダイブした。
「気にしないでください。これで私も同罪です」
 奥村さんは苦笑いしながら、ベットから起き上がった。そしてポットにお湯を注ぎ紅茶を淹れだした。私も立ち上がって部屋の真ん中にあったソファの左側に座った。ラブホのソファは柔らかい。
 ふと元彼を思い出した。初めて一緒にホテルに行ったのはあの人だった。あの人はベッドのシーツが白いままのを見て、やっぱり血はでないんだねと言って笑った。私は窓の外を眺めながら掠れ声で、ごめんなさいと言った。爪を長く伸ばしていれば、と思った。そしたら自分で引っ搔いて、血を出せたのに。それは全く意味のない行為だけれど。元彼はいいよと言って私の頭を撫で寝た。私はベッドから出てシャワーを浴びて、水を飲んだ。
 私が呆けている間に奥村さんは紅茶を淹れてくれていた。
「どうぞ。僕はアールグレイが好きなのでそれにしました」
 奥村さんが紅茶をすする。私はカップから立ち上る紅茶の湯気を見ながら奥村さんに話しかけた。
「本とか映画見るって言いましたけど、何見るんですか?」
 奥村さんは少し悩んだ素振りをした。
「最近はめっきり読んでませんけどね。村上龍はハマりましたよ。あと東野圭吾とか星新一とか平野啓一郎とか」
 私は本とか全然読まないから、ポンポン出てくる作家名は全然わからない。かろうじて、東野圭吾のマスカレード・ホテルを映画で見たことある程度だ。
「マスカレード・ホテルは映画で見たことあります」
 そういうと奥村さんはズイっとこちらに体を寄せた。
「そうなんですね! どうでした? 僕は本でしか読んだことがなかったので、映画の感想を聞きたかったんですよ」
「い、いや、私には難しすぎました。あれよあれよっていう間に事件が起きてて、捜査が進んで、解決して。もっと簡単な映画が好きです」
 奥村さんは私を下に見るだろうか。その方が気楽でいいと思う。でも、予想に反して奥村さんは邪気のなさそうな笑みを浮かべた。
「そうですよね。東野圭吾は僕も少しわからなくなることあります。あと、なら、星新一はどうです? 短いし、分かりやすいし」
 そう言って奥村さんはスマホを操作しだした。
「あと、青空文庫で著作権切れの本が読めるんですよ。文体は古いけど、面白い小説がいっぱいありますよ」
 ほら、と奥村さんはスマホの画面を私に差し出した。画面には夜になりたての空のような濃紺で「青空文庫」と書かれている。文字がたくさん並んでいて、少し目がちかちかした。
「星新一はまだ読めませんけどね。僕の直近の目標は星新一の著作権が切れるまで生きることです」
 壁に掛けられた時計を確認した。残り一時間五十分。
「その、星新一さん? の著作権が切れるのはいつですか?」
 奥村さんは紅茶をすすって笑った。
「二〇六七年です。なので、僕はまだまだ死ねません。こんな時に何言ってるんだって笑います?」
 私は首を振った。けれど、本当は何言ってるんですか、と笑いたかった。何十年も先を見るなんて馬鹿げてる。地球は五割の確率で滅亡してしまうのだから。五割の確率で生き残れるともいえるのだけど。
「こうして今日も誰かが死んで、誰かが死んでから七十年経って、青空文庫が埋められていくんですかね」ふと私がそう言うと、奥村さんはフッと笑う。
「そうかもしれませんね」
 呟くような奥村さんの返事を聞きながら紅茶を一口飲む。麦茶の苦さが限界の私には渋すぎる。でも奥村さんは自信ありげに私に紅茶を差し出していたから、砂糖やミルクは強請らない。
「久世さんは何で料理をされてるんですか」
 本当は元彼が家庭的な女子が好きそうだったからなんだけれど。
「花嫁修業として始めたんです。そしたら案外楽しくて」
 伺うように奥村さんを見たが、彼の表情は硬いままだ。
 奥村さんの好みのタイプを探れない。私は比較的他人に好かれやすいのに。他人の好みのタイプになるのが上手いのに。
「久世さんはいいお嫁さんになりそうですね」
 奥村さんは一気に紅茶を煽った。
 壁にかかった時計の秒針が微かに鳴る。残り一時間四十五分。
「キス、しませんか」
 私は奥村さんに聞いた。奥村さんは目を見開き、私を見た。
「僕とキス、できるんですか?」
 俯いてから上目遣いをして頷いた。純情であざとくて馬鹿そうに見える仕草で。こうすれば好きになってくれるはずだ。根拠は大学時代のテニスサークルの先輩だけれど。
 奥村さんは私の頬にそっと手を添えた。そのままゆっくりと二、三回撫で、顎骨の下に手を添えグッと私の顔を自分の方に向けた。奥村さんの顔が間近に迫る。私は、奥村さんと、キスするんだ。
 ゆっくりと瞼を閉じ、微かに口を窄めてキスを待つ。
「ごめんなさい。やっぱり、できません」
 奥村さんは私の頬を両手で包み、ムニムニと軽く揉んだ。肉付きの悪い私の頬は硬いはずなのに、奥村さんは難無く揉んだ。鶏むね肉に塩を揉みこむみたいに執拗に揉んだ。
「私と、きす、できませんか?」
 揉まれながら奥村さんに聞く。自分で想像したよりもずっと悲しそうな声になってしまった。私があまりにも不細工だからだろうか。それとも私が汚れていることを、何かの拍子に知ってしまったからだろうか。奥村さんはハッと頬から手を離し、ブンブンと頭を振った。
「違います!決して。ただ、僕、潔癖なところがあって。全然知らないあなたのことを警戒してしまうというか……」
 奥村さんは尻すぼみ気味にそう言った。ちょっと安心して、ちょっと面倒臭いと思った。
 性行為は奥村さんが考えるほど神聖なものだろうか。私はそうは思わない。人類が何十億といるのだから。避妊具だってピルだって世の中に掃いて捨てるほどあるのだから。それに
「怒りました?」
 ぼんやりとしていると、心配そうに奥村さんが覗き込んでくる。私は慌てて笑顔になり、少しぬるくなった紅茶を飲んだ。
「いえ、私が性急過ぎました。奥村さんは私のこと嫌いになりませんか?」
 奥村さんは軽く頭を振ってポットから二敗目の紅茶を注いだ。微かに立ち上る湯気を見ながら奥村さんは言葉を紡ぐ。
「いや、僕は貴方にシようって持ち掛けたんですから、僕の方が気持ち悪いですよ。それなのにこの年になってもキス一つもできないなんて、情けない」
 しなびたキュウリのようにしょんぼりした顔をして、紅茶を飲んだ。
「貴方はいつもそうなんですか?」
 奥村さんは私を見つめず、机の上を見たまま言った。
「え?」
「貴方はいつもキスの前、そんなに身を固くして困ったような顔をするんですか? 僕の勘違いだったら申し訳ないですけど、貴方からキスを誘ってきた割に、貴方は緊張している」
 しまった、と思った。バレたと思った。そして奥村さんはとても女慣れしているなと思った。キス待ち顔が固いなんて、普通の男はわからないのに。うずうず悩んでいると、ふと口が勝手に動いた。
「……名前、年齢、職業、趣味、最終学歴。あと何があったら、キスできますか? 奥村さんに抱いてもらうには何の情報がいりますか? 何が知りたいですか?」
 はっと口を抑える。恐る恐る奥村さんを見ると、彼は色落ちした服みたいに表情が脱色されていた。
「久世、さんは、今までどんな人と付き合ってきたんですか?」
 奥村さんは口だけ動かして私にそう聞いた。
「どんな、人? 優しかったですよ。いつも私に気を使ってくれたし、それに……」
 体の相性が良かった、と言いかけて止めた。今言うべきじゃない。けれど、彼と私が二か月も付き合えた理由はそれだけだったと思う。ろくなデートもしなかった。付き合い始めた理由もくだらないものだった。
「私はあの人の前では女の子でいようって思える人でした」
 私は彼の前では雌であったのだ。
「奥村さんは、どんな女性と付き合ってきたんですか?」
 私から意識を逸らすために質問した。
「私ですか?普通ですよ。あー、どちらかというと、キレイ系が好きでしたね。そう、久世さんに雰囲気は似ていた、でしょうか」
 奥村さんは人好きしそうな笑みを私に向ける。この人は、多分人に好かれてきたんだなと思った。人の貝殻みたいに白くて硬い部分しか目に触れたことがないんだ。腐りきった肉みたいに悪臭を放つ部分には触れたことがないんだ。残り一時間四十分。
「久世さんは、話しぶりを聞く限り交際関係は一人みたいですけど、何で付き合ったんですか?」
 私は少し目を開いて奥村さんを見て、少し目を伏せ、もう一度奥村さんを見た。少し、奥村さんをいじめたくなったから。
「少し、重い話になるんですけど、いいですか?」
 奥村さんは驚いた顔をして、頷いた。
「私はあの人……仮に、仮に修吾さんとします。修吾には私から告白したんです。多分だけど、修吾に襲われたから」
「あ、え、詳しく聞いても?」
 奥村さんの声は少し硬い。口を潤すためにかなりぬるくなったお茶を一口飲んだ。
「私の通っていた大学には星とか宇宙に関するサークルが二つありました。一つは本当に宇宙や星が好きな方。名前は地学愛好会でした。もう一つは、いわゆる飲みサーで、天文同好会って名前で活動していました。けど、地愛とは似ても似つかない活動してました。月を見る、星を眺めるという名目で夜中に集まって、お酒を飲んで、お持ち帰りとかもありました。私、岡山出身で。知ってます? 岡山って東京の人が思う以上に田舎なんですよ。バスもこんな走ってないし、夜中も携帯の電灯なしに歩けるほど明るくないんです。そうやって都会慣れしていなかったから、私は良いカモだったんですよ。
 初めてお酒を飲んだのは同好会の新歓パーティーでした。ストレートで入ったので、私はまだ十八才で。今でも覚えていますよ。『これ、オレンジジュースだから安心して飲んでいいよ』って言われて、それ、カシスオレンジだったんですよ。先輩が間違えたのかなって思って、それ全部飲んだんですよね。そしたら先輩たちなんて言ったと思います? 『秋音ちゃ~ん、お酒飲んじゃったね? 黙っててほしいならこれも飲んでよ』って。そこから何杯も飲まされて。遺伝的にはお酒強いはずなのに、面白いほど酔って、意識失って、寝て、お持ち帰られたんですよ。男の先輩二人に。どちらかの先輩の家の床で寝かせられてたみたいで、腰が痛くて起きたんですよね。起きたっていっても目が覚めて体を起こしたんじゃなくて、意識だけあるみたいな状態でした。そしたら私のブラウスの下に手が入ってきて、ブラをずらして。胸を揉まれたんですよね。最初は触れるとか撫でるくらいだったんですけど、だんだん強く揉んできて。私、動けなかったんですよ。馬鹿みたいですよね。怖いとか、悲しいとかじゃなくて。私はとにかくびっくりしてました。こんなことが現実に起きるんだって。そのまま寝たふりをしてたら、上を脱がされて、スカートも脱がされて。多分、下着も脱がされました。目を閉じてたのでよくわからないですけど、とても寒かったので。それで、太ももを触られました。外側から感触を確かめるみたいに。効果音で言うと、ぬめりって感じで。多分、私にその気があったら気持ち良かったんだろうですけど、全く気持ち良くなかったです。それで内ももを撫でられて、おへそを舐められて。そのとき、先輩は舐めながら『くっさ』『お前のよだれの匂いだろ』って笑いあっていたんです。そのあとは、私は寝てしまった、いえ、意識を失ったのかもしれませんけど。だからどうなったかは分かりません。翌朝起きたら服は着ていました。体には特に変わったところもありませんでした。二週間後には生理も来ました」
 そこまで話して紅茶の最後の一口を飲んだ。苦い。初めて飲んだカシスオレンジはジュースかと思うほど甘かったのに。
「なんでそこから修吾さん、と付き合うことになったんですか?」
 奥村さんは硬い声でそう聞いてきた。私は奥村さんの方を見てにこりと微笑んだ。
「その二人の先輩のうちの一人が修吾だったんですよ。声音からして、多分、私のお腹を舐めた方です。田舎でもネットは使えましたからね。どこかのサイトに書いてあったんですよ。付き合ってない人に抱かれると貞操観念が崩壊するって。だから付き合ったんです」
 ただ、デートはいつも夜だったけれどね。あの人とするのが私の初めてだったはずなのに、血は出なかったけれどね。私は彼のまともな友達に会ったことないけどね。私はあの人といるとき、自分は一人なんだなって思ったけどね。
 もう死ぬと思ったら、そんなことどうでもいい気がした。もう私は一人じゃない。壁の時計を確認した。残り一時間二十分。その間、奥村さんに私を見てもらい続けるだけでいいのだ。いつものワンナイトやセフレみたいに一晩とか、何日とか、長い時間見てもらい続ける必要はない。初めて、地球に隕石が当たることに感謝した。こんな私でも、その程度の時間ならば縛り付けておくことはできるだろう。
「久世さんはそんなレイプまがいのことされて嫌だとか思わなかったんですか」
 奥村さんは悲しそうな顔で私にそう聞いてきた。ちょっと気分が良い。純粋そうなこの人に一滴、墨を落としたみたいな。
「ほら、」
 するすると口が滑る。
「レイプじゃない、ですよ。挿れられていませんし」
 奥村さんは何も言わないでソファに身を預けた。
「結局は私が悪いんです。誰にも言わないで、叫ばないで、身を固くして、そのまま黙っていたんですから。叫べば、きっと私はあんなことされませんでした」
 乾いた口を潤すために、カップを持ち上げた。紅茶はもうなかった。
「この話をすると、私が被害者になりたいみたいに聞こえるから嫌なんです。私、このことがあってなんて思ったと思います? あぁ、私にも魅力があるんだな。東京の人も私みたいな人を選んでくれるんだって思ったんです。だから、あれはレイプでも強姦でも何でもないんです。私に自信をつけてくれた良いことなんです」
 私は今この瞬間、世の中の誰よりも悪女だ。純粋そうな青年を誑かして、同情を誘って。肌が泡立った。体の奥底が氷漬けにされているような感覚がした。私は笑みを深める。別に嘘は吐いていない。率直な身持ちを話しただけでのはずだ。
 この話は悲劇でも喜劇でもない。世の中の人は口にしないだけでこれくらいのことは誰でも経験している。もっとひどいことを経験している人もいる。
 大学の心理学の授業で、「箱の中のカブトムシ」という思考実験が紹介されたことを思い出した。人々にカブトムシが入った箱を一つ渡される。でもこの箱は自分の箱しか覗くことはできなくて、他人の箱は覗くことはできない。だからほかの人の箱の中にはカブトムシが入っているかもしれないし、カマキリが入っているかもしれないし、何も入っていないかもしれない。箱の中のものは自分にしか理解できなくて、どんなに頑張っても他人には理解されないしできるはずもないということを示唆する思考実験。
 結局トラウマや感情もそうなのだ。私以外の誰にもわからない。私しかわからない。奥村さんにこの話をしても、どうせ可哀想だとか、気の毒だとかって感想しか抱かない。私のこの満たされた感覚や、幸せな気持ちは分からないんだ。私は幸薄そうな女の顔をしたまま、内心でほくそ笑んだ。
 この優越感、奥村さんを汚した背徳感、そして孤独感。いろんな感情が綯い交ぜになりすぎて涙が出そうになる。けれどグッとこらえる。ここで泣いてしまったらただの可哀想な女の子だ。
「紅茶の、お代わりいりますか?」
 奥村さんはポットを持ち上げてそう言った。私は頷いて、お砂糖を入れてくださいと言った。
「渋かったですか?」
「いえ、味を変えたいだけです」
 コポコポと奥村さんが紅茶を注ぐ。私はぽかんと天井を眺めていた。青い間接照明に照らされた天井を見ていると、海の中にいるようだった。
「プールに潜ってるみたいですね」
 奥村さんは私が考えていたのとは微妙にずれたことを言った。私は奥村さんが注いでくれた紅茶を飲む。飲んで瞬間は渋くて、その後に甘みが来た。もう少し砂糖が多くてもいい気がする。
「キス、しましょうか」
 奥村さんがそう言ってきた。私は正気か? と奥村さんを見た。
「どうして、そんないきなり」
 私の呟きに奥村さんはフッと微笑んだ。
「久世さんから誘ってきたんじゃないですか。それとも、僕とキスするのは嫌ですか?」
 私は首を振った。奥村さんは初めに私にした行為よりも丁寧に私の顎をなぞった。私の輪郭を確認するような手つきだ。それが、ふわふわと漂う私の自意識を確定してくれるようだった。
「ほっぺ、柔らくなりましたね。雲みたい」
「触ったことあるんですか?」
「ないですよ。たとえですよ」
 奥村さんは、不意に私にキスをした。目を閉じる暇がなかったから、私は奥村さんと目を合わせながらキスをしてしまった。奥村さんの唇はちょっと固くて、かさついていて。半日ほったらかしたかまぼこみたいだ。私の唇はちゃんと柔らかいだろうか。私の体は奥村さんには魅力的に見えているだろうか。ぼんやりと奥村さんの顔を見る。ほんの少しだけ顔が赤くなっている。興奮じゃなくて、多分、酸欠によって赤くなっている。
「僕のキスじゃ、貴方のこと、夢中にできませんか?」
 考え事をしていたら不貞腐れたような声が聞こえた。考え事をしていたのがばれたみたいだ。私は首を振る代わりに、奥村さんにキスをした。いきなりキスをしたから奥村さんの口は半開きで、私はおもむろに舌を入れた。ディープキスはチョコがとろけるように二人が一つになる感覚が好きだ。私の存在を認めてくれている気がする。初めは奥村さんの舌は硬かった。けれど、すぐに柔らかくなった。私は舌が長くないから奥村さんの前歯の裏を舐めるので限界だった。それでも奥村さんは驚いたように口の動きを止めた。でもお互いの歯が当たらないから、慣れているんだなと思った。
「ベッド、いきましょうか」
 奥村さんから誘ってきた。私は迷わず頷いて立ち上がって、ベッドに寝そべった。
「服を着たままだったら、駄目ですか?」
 私が冗談交じりにそう聞くと、奥村さんはきょとんと鳩のような顔をしてから笑った。
「同罪でしょう?」
 奥村さんの言葉に笑って頷いた。
 奥村さんが私の服を脱がせてきたから、私も奥村さんの服を脱がせた。ワイシャツとかだったら脱がせやすいのに、パーカーを剥ぎ、シャツの裾から手を入れて、胸元まで出す。私はブラウスにスカートだったから、脱がせやすいはずだ。あの飲み会の時は確か白シャツにピンクのカーディガン、レースのロングスカートを着ていたな。都会で見るおしゃれな人の真似してたな。やせ形で女性らしい体つきではない私には似合ってなかったけれど。私も今では誰かの真似されてるだろうか。そんなことはないか。
 奥村さんは胸元まで上げられたシャツを一気に脱ぎ投げた。
「細いですね。折れそう」
 しげしげと私の体を眺めながら、奥村さんは呟いた。私の手首をつかみ、もっと食べろよ? と言ってきた。この人はいつも未来志向なことを言うと思った。
 奥村さんがつかんだ手首ごと私の手をを口に寄せ、指を舐めてきた。一本一本確かめるように。そして唾液で湿る私の指を自分の顎に這わせた。
「気持ち悪いくらいべたべたですね」
 カラカラと笑いながら、奥村さんは枕元にあったタオルを取って、私の手を丁寧に拭った。それがくすぐったくて私も笑った。笑う私をあやすように頭を撫でられた。目を伏せてその手の感触を楽しんでいると、いつの間にかブラのホックが取れていた。フロントホックだってのもあるだろうけれど、奥村さんはそれを片手で外せるくらいには遊んでいるらしい。
 ブラを剝ぎ取ったくせに、奥村さんは私の胸はそれほど触らなかった。代わりによく頭を撫でた。私もお返しに奥村さんの腕や胸を撫でた。特に筋肉がついているわけでもないし、太っているわけでもない。いたって普通の体だった。
「太もも、触ってもいいですか?」
 しばらくお互いの体をまさぐりあっていると、奥村さんが静かに聞いてきた。
「奥村さんは、こういうとき、誰にでも触っていいか聞くんですか」
 奥村さんは黙って首を横に振る。
「なら気にしないでください。別にあれはもう過去のことです。私にとって、もっと余裕のある時に思い出したいものなので」
 少し、興奮が落ち着いてしまった。奥村さんの体を撫でるのをやめて、彼がどうやって動くのかを見た。神社の御利益のある石を撫でるように、神聖なものを撫でるように、私の太ももに触れていた。そんなに仰々しく触れなくても。私は抱かれてる途中に相手を拒否するほど生娘ではないのに。でも少し興奮してきた。私は奥村さんの下半身に手を伸ばした。

「ゴム、とってくれません?」
 奥村さんは少し赤い顔でそう言った。枕元に二個あったうち、一つを取って奥村さんに渡す。ありがとうございます、と言って奥村さんがはにかむ。奥村さんがゴムを付けている間、私は少し手持無沙汰だ。
 初めて、太ももを触られる前に、許可をとられた。
 残り三十分。このまま挿れて、動いて、出されて、ピロートークしたら死ぬのかな。
奥村さんがゴムを付け終わった。私の腰の横に両手をつく。
「ちょっと待ってください」
 上気した顔の奥村さんは苦しそうに動きを止めた。
「なんです?」
 少し不満そうに奥村さんは私に聞く。

「キスしてほしい、って言ったら、怒りますか?」

奥村さんはすっと目を細めて私に触れるだけのキスをした。奥村さんはキスした後も穏やかに笑っていた。
視界の端の時計の秒針は一瞬止まって見えて、そのあと動いた。





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