骨と肉
話には骨と肉がある。話の骨子とか論理の骨組みなどと言うように、ポイントとなる論理の中心筋がある。そしてそれを補強したり広げたりするための肉付けがある。具体例とかちょっとした寄り道とかが肉付けに当たる。骨だけの話は分かりやすいと言えば分かりやすいけれども、やはり硬い。論理だけで生身の人間の心を動かすのは難しい。その言葉に感情を載せ、肌感覚が伝わるような表現が必要となる。「働くのは大変だ」と書くだけではなく、自分自身がどんな苦労を経験したのかを書いた方が大変さの温度が伝わる。
一方で、肉付けも拘り始めるとどんどん太っていく。ふわふわとした柔らかい肉がたっぷりついているのだけれど、食べ終わった後に骨がない話もある。それはそれで面白い文章になることもあるけれど、これが「面白い」と感じられるのは、「普通骨があるべき場所に骨がないこと(論理が破綻していることの融通無碍さ)が面白い」のであって、この種の面白さはいつまでも続けるのは難しい。
文章の面白さは、骨をどれくらいの肉でどのように包み隠すかというところにある。
具体例を用いることは、伝わりやすくなることもあるけれど、逆に伝わる対象を限定してしまうこともある。抽象的な方が伝わりやすい人もいれば、具体的でないと考えられない人もいる。そのあたりは読み手と書き手の相性だ。
僕の文章は抽象的な書き方が多い傾向がある。その理由は、自分が実際に経験した出来事を出来るだけ一般化したいと欲しているからだ。肉付けは出来るだけ少なくして、読み手のいろんな状況に当てはまる可能性を保ちたいと考えている(気がする)。というか、自分自身の中でより普遍的な原則を見つけようとしているのかもしれない。
骨のない肉は食べ続けられない。でも骨と肉がくっつきすぎていて汎用性の低いものは、面白くても少しもったいないなと(個人的には)感じる。肉が旨くて、それなのに後で骨の在りかもちゃんと心に残っている。かつ、食べているときは骨が邪魔にならない。そんなものが好きなのかなぁ。
書きたいものと読みたいものはまた違うかもしれない。
書き始める時はなんとなく「これを書きたい」と思っているものがあって、そこに向かって進んで行く。でも、そこに到達する前に願っても無かったものが出来上がってそれが一つの形に仕上がることもある。または、書きたかったものを通り過ぎて、もっと大柄なものになることもある。
書くという作業は、勢いのある乗り物のようなもので、意図しないところで意図しない動きをして、不思議な軌道を描いていく。途中で止まったり、変なものを積み込んだりして、自分でやっているのに自分でも想像していなかった結果が生まれる。奇妙な活動だ。
創作は、だから「何かが降りてくる」とかいうのかもしれない。芸術的なものを書こうとは思っていないけれど、出来るだけ自分の思考に正直でいたい。そして、自分で書いた文章を読んだときに、そこにある流れに何らかの力を感じるような美しさがあったらいいなと思う。
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