自分が管理できないことは管理しようとしない
自分が管理すべきことは、どこまでなのか。線引きするセンスが大事だなと感じている。関心があることのなかに、自分が管理すべきことと管理できないこと(管理しようとしてはならないこと)の二つがある。
例えば、家族に関心があるとしよう。家族のために自分ができることとして、仕事とか家事とか教えるとか話すとか遊ぶとか、できることはまぁいろいろある。これは自分が管理すべき自分の行動。でも、その外側にあるものは、管理しちゃいけない。相手の性格を変えるとか、相手の機嫌を直すとか、相手に夢を持たせるとか、相手を頑張らせるとかあきらめさせるとか。他人のことは、たとえ家族であっても本人が決める。
「変えてほしい」と伝えることはできる。でも「変えさせる」ことはできない。要は、自分のことは自分で、他人のことはその人が責任をもって決断し、行うということだ。
暴力とか命令とか支配というと、明らかに嫌なイメージがあると思う。束縛であり虐待にあたる。
でも、一見善意のようで実は支配の一形態として「相手を操作しようとする」ことも含まれる。
相手の機嫌が悪いときにそれを直してあげようとするというのは、いいことのようでちょっとだけ変なことである。機嫌が悪いのはその人の責任である。直す必要はない。機嫌悪く生きた結果を、本人が引き受けなくてはいけない。
「あなたが機嫌が悪いと私は傷つくから、その態度をやめて」と伝えるのは正しいことだ。でももし他人の機嫌を操作するために「自分が努力しないといけない」と感じているならそれはおかしい。それは相手が赤ん坊でいる間だけだ。訴えたのに変わらないなら、いつまでも相手を変えようとするのでなく、こちらが態度と行動を変えるしかない。言ってだめなら離れる、とか。
他人の生き方とか感じ方とかを「操作しよう」とするのは、おかしいことだ。人は皆、自分自身の意志と責任で選び、そして選んだ結果を自分自身で引き受けなくてはいけない。大変ではあるが、そうでなくては成長も学びも自立もない。その人の人生と選択を、他人が奪ってはいけない。人生というのはそういうものだし、だからこそ面白いのだ。
「その人を助けたい」、「その人のためにやっている」。そう思っているのだけれど(最初の動機は良いのだけれど)、いつのまにか過干渉になり、ついには「助けたんだから私の思う通りに行動してよ」という気持ちになっていくならそれはちょっとおかしい。
動機は正しくても、考え方と伝え方が間違っていると、相手を操作することになってしまうことがあるのだ。
そのあたりのバランスを、家族に対しても仕事においても結構気を付けている。
自由でいてほしい。自由を与えたいと思う。そこに一人一人の成長と、関係性の成熟もあるから。もし深く関係を持つなら、すがすがしい風の吹き通る関係性の中で、気持ちよくつながりたい。
選択肢があることを示す。自由を与えて、自分で選んだら、選んだ責任も自分で取らせる。責任を取ったらもっと自由にしていく。もし必要だと言われたら、助けることは辞さない。けれど必要以上に世話をしない。
そんな感じだから、僕はたまに「冷たい」と思われることもあるみたい。
でもいいじゃないか。それくらいで。あなたの人生を私は負うことはできない。あなたの責任も、代わりに負ってあげることはできない。私は私の人生を背負うだけで精いっぱいだ。
でも、気分がよければ、しばらく手をつないでいっしょに歩いてみましょう。それくらいならできるし、そんな感じがいいんじゃないか。