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羽生さんになれないから

タイトルの羽生さんは「はぶさん」であって、羽生結弦(はにゅうゆずる)くんではない。

将棋棋士の羽生善治(はぶよしはる)さんがその奇才ぶりでメディアを賑わせていた頃(もうずいぶん昔のことになったな…)、友達が言っていた。「どうせ羽生さんになれないから、やってても意味ないわーって思って、だから俺、将棋やめた」。
彼がどれほど真剣に将棋を学んでいたのかは知らないが、羽生さんの活躍とその桁外れの才能を見て、彼なりに挫折を覚えたのかもしれない。

将棋のことはまったく知らなかった僕は、羽生さんの才能と君が将棋を努力することの間に、一体何の関係があるのだろうと不思議に思った。

今は、彼の気持ちが分からないわけではない。想像するに、自分が感じていた達成感や身近にいる将棋仲間に勝利した経験というのが、羽生さんの活躍を目にしたことで相対的に小さいものに思えたのではないか。井の中の蛙であったことを痛感してしまった、というか。

先を見据えてしまった途端、そこにはるかに及ばない自分の立ち位置に気がついて立ちすくむことは、ある。

でも、羽生さんになれなくても将棋を楽しむ道もあったんじゃない、とも思う。本人の自由ではあるけれど。羽生さんになれなくても、将棋の世界の面白さは変わらないのでは。

幼い子どもが、絵を描くことや歌うこと、踊ることをただ楽しめるのは、それが形になるかとか完成するかとかを考えないからかもしれない。ただ絵をかくのが楽しい。歌うことが、踊ることが楽しい。だからやる。

先日甥っ子が、自由帳に描いたカラフルな星のカービーの絵をプレゼントしてくれた。「これね、神田さんと〇〇ちゃん(僕と妻)にあげる!あげようと思って描いたの。」と、とっても得意げに言うので、ニマニマしてしまった。パパとママに一杯誉められて、お絵かきを楽しんでるんだろうなぁと思った。

でも、続けていれば少しずつ変わっていくかも知れない。楽しむだけじゃなくて上手くなりたいと思う。そして上手くなろうとすると、もっと上手い人がいることに気が付く。それを長く続けて、人前で披露するとか、評価を受けるとか、あるいは職業にしよう(対価をもらう)となると、もっともっと上手くならないといけない気がしてくる。それは自然なことなのかもしれないけれど、そういう外側の変化によって、絵を描くこと自体を楽しむ気持ちがしぼまないといいなぁと思う。

狭くなっていく道ではなくて、「やりたいからやりたいことをする」がずっと続いていく広々とした世界だといいな。

もちろん下手なままよりは上手になったほうがいい。でもそれは、上手くなった方が楽しいからだ。楽しいから、上手になりたい。うまく出来るようになることそのものが楽しい。

努力することが、孤独であったり、犠牲を払うことであったりしても、その向こうにある喜びを見据えていれば、楽しむことも出来ないかなぁ。



もうひとつの視点として、楽しいと思えなくなったら辞めてもいい、と心から思っているところもある。続けた方が伸び続けるのは間違いないのだけど、楽しくないことを無理にやれるほど人生は長くはない。無理すると心と体に支障をきたす。そもそも楽しくない趣味とはなんぞや。(楽しくないことをやり遂げることに楽しみを感じているのなら、それはまた良し)

僕がやめたものはいっぱいある。子どもの頃から振り返ったら、習字、水泳、絵、歌、ピアノ、アコギ、中国語、ドイツ語。あ、筋トレもヨガもストレッチもある。読み終えていない本は、それだけで本棚がひとつ埋まる。今も継続している英語やチェロも、何度かブランクを挟んでいる。しかも、クラシックギターに寄り道?している。
どれも、たとえ辞めたとしても、無駄にはなっていない。と思う。
やってみて、その活動に必要な考え方とかルールみたいなものをなんとなく習得しておくと世界が広がるのだ。
そして、一度辞めたとしても、やりたければまたいつでも再開していいのだ。やめてもいい!また始めてもいい!いいのだ!
いろんなアプローチがあるのだから、楽しめるやり方で、素敵な人たちとルンルン気分で取り組んだ方が断然いい。

早く進まなくてもいい。でも、自分なりの目標をもって、そこに到達するプランを立て、必要な知識と素敵なメンターをもって、少しずつ上達して行くことを楽しむのが良い。

羽生さんになれなくても、将棋は人生を楽しくしてくれるはずだ。
ぼくは将棋、出来ませんけれども。


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