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なめられる(ぺろり)
人と関わると、なめるorなめられるという経験をすることになる。
誰しも他人からなめられたくないだろう。なめるとは言い換えればその人を軽く扱うということである。その人の意見、感情にそれほど価値を置かない。だから、なめられている人は意見を聞いてもらえず、感情を伝えても配慮してもらえない。
人をなめるのは、相手に対して失礼なこと。相手に自分がなめられるのは嫌なこと。一般的にそう述べることは出来る。
では、親子関係ではどうだろうか。
「親が子どもになめられないようにする」
これは、親の意見や決定が、子どもにとって重要であることを示すということだろう。子どもにとって必要な教育・態度という文脈で語られることが多いかもしれない。
でも裏を返せば、親が子どもをなめているということにもなりそうだ。「子どもになめられない親」とは、親が子どもの意見や感情に価値を置かない態度を貫くことに近づいてしまう危険はないだろうか。
「子どもになめられないように振る舞う大人」よりも、「子どもになめられてもびくともしない大人」の方が子どもに信頼される
と書いておられる方がいた。(Xで。この人の本買ってみたいと思っている。)
完全な同意はしないけれども(おそらくもっと解像度を上げる必要があるる)、この言葉のもつ微妙なニュアンスを僕も感じたことはある。なめられないように振る舞っているひとをかえって軽蔑して諦めてしまう気持ちだ。逆に、こちらのなめた態度に対して動じないことでより相手が大きく見えるというような気持ちだ。
「なめる・なめられる」というのは、同じ土俵に立っている時に出て来る感情かもしれない。
子どもが大人に対してなめた態度を取ったら、それは場合によっては言葉でどうしてそれが間違っているのかを説明する必要がある。まぁ、いろんな場合といろんな方法があるだろう。
でも、大人の心の中にあるべき感情は「子どもになめられたくない」ではなくて、「子どもになめられたところで大人である私の価値が変わるわけではない」という穏やかな心と、この子はどうして今失礼な態度をとったのだろうという観察が必要なのかな。
子どもの心と上手く向き合う方法を考えるためには、親が「なめられてはいけない」という心持だと余裕がなくなってしまいそうだ。大事なのは、その子の心の仕組みや正直な気持ちと向き合う余裕と言うか、覚悟と言うかそのようなものだと思う。
同じ土俵に立ってしまうのではなくて、もう一つ上の大きなステージに立って最善手を考える余裕。
僕には、仕事上でとても信頼できる先輩がいる。有能で献身的で親切で、さらに支配的(あるいは依存的)でない先輩。相談すると適切な距離を保って答えを返してくれる。先輩から頼られることもあるし、またそれを安心して断ることもできる。仮に先輩に対する僕の頼みが断られたとしても傷つかない。僕が尊敬しているだけでなく、僕も敬意をもって扱ってもらっていることを感じるからだ。「有能な人に親切にされるって最高に幸福だな」という感情を抱く。
子どもが大人と関わる時、こんな気持ちに似た感情を抱けたら、世界に希望がもてそうだと思う。