親と子が互いに信頼しているとは
教育におけるすべての土台:信頼する
と、本に書いてありました。
そう言われてみると、そんな気もする。
果たして、自分は親を信頼してきただろうか。親は僕を信頼してくれていただろうか。
親子関係において互いを信頼するとは、具体的にどんな事柄が含まれるのだろう。
僕なりに考えてみた。(こういうのは、ともかくも自分の頭で考えて、アウトプットしながら修正していくしかない。何も考えないよりは、自分の実感の伴う言葉があったほうがましだろう。)
親と子の間で信頼関係を築くこと
(1)「親が子どもを信頼する(信じる、期待する、任せる)」という場合
その意味するところは
・子どもの考える力、決める力、実行する力を信じて、子どもの自主性に(ある程度)委ねること
・子どもの意欲・興味関心と自由な可能性を信じ、能力を育ててあげること。可能性を現実的なもの(体験、知識、練習、技術)へと導くこと。親が勝手に諦めたり否定したりしないこと
・未発達な体力と精神力が補強されるように、必要な手助けと励ましと慰めを与えて、楽しく挑戦し続けられるよう導いてあげること
・助ける必要がなくなれば、干渉しないこと
・親の思い通りに子どもを支配しようとしないこと、よく様子を観察して子どもの興味が向かっている先を広げてやる
・子どもに悪いことをしたと思ったら、親であっても謝ること
・一人の人間として子どもの人格を尊重すること
である。
(2)「子どもが親を信頼する(信じている、頼っている)」
ということの意味は
・子どもから見て、親の言葉と態度と行いが(ある程度)一致して、一貫していると感じられること
・親が安心できる空間と時間を与えてくれると感じられること
・子どもも、親に対する言葉と態度と行いを一貫させようと努めること
・子どもから見て、親が自分の本当の気持ちを尊重し、理解しようとしてくれている(話を聞こうとしてくれる)、と感じられること
・親の誠実な(完ぺきではなくても)生き方を尊敬できること
・悪いことをしたら謝ることができること(無理やりの謝罪ではなく)。また謝ってゆるされて、関係を修復できると知っていること
である。
大まかすぎる気もするけれど、何十年という親子関係で考えると、僕が考える親子関係の信頼の中身はだいたいこのような表現になるのではないだろうか。より短いスパンで考えれば、例外的な時期や出来事はたくさんあるだろう。成長段階と個性によって、対応が千差万別であるのはもちろんのことだ。
僕は若い頃、教育方面に進むことを真剣に考えていたこともあって、子どもの可能性をいかに伸ばしてあげるかという考えがずっと頭のすみっこで稼働している気がする。
自分が学び続けているのは、自分という子ども(?)の可能性をいかに伸ばしてあげるかという実験であるとも思っている節がある。
土の中に種を蒔いたら、どんな花が咲くのか。太陽と水をたっぷり浴びたら、どんな実がなるのか。そもそも、この命は、どこに向かって育ちたいと願っているだろうか。
生命力の神秘だ。
そんなことを考えていたら、僕の大好きなヴァイオリニストであるヒラリー・ハーンのインタビュー記事に、似たようなことが書かれていた。
以下引用
Q:過去のインタビューで、ハーンさんは、「人とコミュニケーションするのが好きだし、音楽だけにとらわれず、つねにいろいろなものに目を開いて、たとえば自然のなかで花を見て、風を感じて…そういう気づきが大切。」とおっしゃっていました。そのようなセンシビリティ、また、それをキープしようとする姿勢は、生まれつき持っていたのでしょうか、あるいは、むしろ意思を持って保っておられるのですか?
ヒラリー・ハーン: (しばらく考えたのちに)…おそらく、その両方のコンビネーションで、習慣として身についたんだと思います。いつもいろいろなことに興味がありましたし・・・たとえば大きな絵画などの細かい部分までじっくり見たり、何か観察したりすることが好きなのです。そんなそもそもの性質を後押しするかのように、先生たちや、家族に「そうだよ、もっとやってごらん。」と手助けされたんですね。いろいろなことにトライするように、体験してみるように、と、つねに励まされました。
ただし、なんとなくやるのではなくて、「どうやったらいいか?」を考えることを怠りませんでした。それぞれの体験を関連づけることも。また、体験して自分がどう感じたか?という、考察もね。そうすると、自然に「じゃあ、このあとステップアップするにはどうしたらいいかしら?」と、継続が生まれるんです。周囲からのすばらしい応援があったということ、これは自分の大きな幸運だったと思います。
引用終了
僕としては、こういうサポートが親子の信頼の中身として含まれているように感じている。好奇心の向かう先は一人一人違っても、子どもにはみんなこういう目をキラキラさせる対象が存在している気がする。それを掴んで、世界とつなげてあげる、というのは、最初親にしかやってあげられない仕事だ。
これがおそらく、僕が「してもらったこと」、あるいは「もっとしてほしかったこと」、そして「してあげたいと思っていること」なのだと思う。
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