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「えん」の中にいる、私たち。

「えん」。いろいろと漢字がある。
円、縁、園、宴、炎、煙…

上にあげた漢字、すべて「訓読み」が存在する。
まる、ふち、その、うたげ、ほのお、けむり……

これに「ご」をつけても、そのとおりに意味が通じるわけはない。「ご」をつけることで、かえって意味不明になるもののほうが多い。
ご円(5円ではなく)、ご園、ご炎(?)、ご煙(?)……このあたりまで来ると、もうめちゃくちゃに。ゲシュタルト崩壊とまではいかないが「すべての言葉に『お』『ご』をつければいいって問題じゃあないだろ」に陥りかねない。まず炎や煙は丁寧に言わない。園もそう、宴もそう。円なんか「5円」と勘違いされる。
つけて意味が通じるのは「縁」くらい。ただ単に丁寧にすればよいというものでもなかった。そもそも「えん」という言葉は、丁寧に表せるものと表せないものがある、と思っている。

「ごえん」
これならまだ意味はわかる。おそらく、ひとつの言葉として使えば意味は通じる。誤嚥とか五円とか、まさにそうでは。御縁は違うが。
誤嚥、五円、御縁。
「ごえん」で予測変換に出てきたものを、単純に並べてみた。なにか物騒な「誤嚥」が一番最初に出てきたのは、先日「誤嚥性肺炎」を調べたからである。
五円と御縁は大事にしたいところ。誤嚥は大事にする意味がわかない。治せるものは治したほうがよい。

 ──

私は2021年の9月に、とある通信制大学の門を叩いた。理由は司書の資格と学芸員の資格を取るためである。
当然、そうしたいと思った「えん」がある。

・あるゲームに出てきたキャラクターとの「えん」と、慣れ親しんでいた作品に出てきた図書館との「えん」

「ぷよぷよ‼︎ クエスト」での出会いがなければ、通信制大学で司書資格を取ろうなんて考えもしなかった。これも立派な「えん」であろう。
もともと「ぷよぷよフィーバー2【チュー!】」の舞台であるプリンプタウンには「プリサイス博物館」なるものがあり、図書館と似たような機能がある。また「ぷよぷよ‼︎ クエスト」の舞台であるプワープアイランドにも図書館があるような書き方(メインストーリーを遊ぶと判明する)をしていることから「図書館」が存在している。ただし「ぷよぷよ‼︎ クエスト」内でその図書館を訪れることはできないため、一切の詳細は不明。しかしストーリー進行の関係で司書らしきキャラクターと別のキャラクターのかけ合いがあり、はじめてプワープアイランドに図書館があるとわかったようなものである。
この3人というのが、現実世界で言うところの「司書」にあたると思われる司書官シリーズ。私が通信制大学に行くきっかけをつくった張本人たちである。
プワープアイランドにある図書館の蔵書は2424万冊。どうやら「ぷよぷよ」を「2424」と読ませているらしい。この司書官たちは、どの書架にどの本があるのか瞬時にわかるという。しかも分類番号4桁をすっかり暗記しているような素振りまで見せるので、ゲームの設定とはいえ、正直驚きである。
実際の図書館にも本の並びは当然存在する(日本十進分類法)。なんとなくのあたりはつけられても、細部までは誰にもわからない。
「本好き」というか「図書館好き」になったのは、ここからの可能性が高い。

ぷよぷよを例にあげたが、実は一番遊んでいるゲームはポケモンである。ぷよぷよは次点。その次にファイナルファンタジー。そしてポケモンやFFにも図書館が存在する作品がある。ポケモンはミオ図書館、FFは5の古代図書館、9の「隠者の書庫」ダゲレオが有名だろう。どのゲームの図書館も、魅力的であることは間違いない。
これらが実在するのであれば、行ってみたいのはダゲレオ。湿度が充満する場所に本を置いておくなど御法度なので再現が難しそうであるが、あの場所は神秘的である。逆に行きたくないのは古代図書館。怪物が棲みつく本は静寂を破り、読書や調べものの邪魔をし、行く手をはばむ。
ゲーム以外の作品では、アスキーメディアワークス(電撃文庫)の「とある魔術の禁書目録」に出てくる、魔道書103,000冊を記憶したシスター・インデックスの影響がいちばん強いかもしれない。こちらは「図書館」という固定施設ではないものの「頭の中に」ひとつの図書館を詰め込んでいるようなトンデモな設定だったからである。
これらが、先の「司書官」が来る前に、ちいさな石を少しずつ撒いていたのである。

・職場で出会った「現場にいた」人、はじめてできた学友と、ふたつのおおきな「えん」

転職してお金を貯め、いや逆である。とにかく「なにか」を変えないと、と思って転職した先でも「えん」はあった。今の職場は、図書館となんの「えん」もない会社であった。そんな会社の人との談笑中に、それはいきなり現れた。
「図書館で働いてたときはね〜」
なんと「図書館」という言葉が、唐突に投げ込まれたのである。よくよく話を聞いてみると、その人は図書館現場にいた人であった。やりがいと苦労、その両方を聞き、私はなにかの「えん」を感じ、司書資格を取ろうかどうか迷っていると打ち明けてみた。すると応援してくれ、どこどこがいいよ、とご丁寧に司書資格が取れる大学名も教えてくれたのである。私はどの大学にしようかと3つほど検討しており、ホームページを見たり口コミを見たりして検討していたが、年に何度かスクーリングや試験を受けにキャンパスまで足を運ばないといけないなど、メリットの中に隠されたデメリットを知り、悩んでいた。その中に教えてくれた大学の名前があり、背中を押してもらったものと感じ、帰りの電車内で資料請求をしたのを覚えている。
そして決めたのが、来校不要ですべてを完結できる「八洲学園大学」である。

通信制の学校で勉強、と聞くと「孤独な戦い強いられる」と思う人は少なくない。たしかに孤独である。つながりがなければ。
ただ、これは「つながりがなければ」の話であり、学友なんて探せばいくらでも見つかる。同じ学校でなくてもいい。通信課程で勉強している、というのが前提であるが、画面の向こうにいるのはたしかに「通信制で学んでいる人たち」であることに間違いはない。
通信制を置いている大学が増えたこともあり、SNSにはそんなアカウントがたくさんある。Twitter内の検索で「通信制」と検索すれば勝手に見つかることをいいことに勝手に学友にしてしまう、なんてことまではしないにしても「結構たくさんいる」という認識は持てた。それだけでも、なにかの「えん」を感じたからである。

ここにいろいろ書いたが、それでもまだ足りないくらいである。「大卒扱いにならない」「通信制は卒業率が悪い」など通信課程が「大卒扱い」とみなされないという意見が多数を占め、その間に「きちんと大卒扱いである」というほんとうの答えが埋まっている。
たしかに通信制は学習で置き去りを食らう可能性があるのは否めない。ここは私も否定しない。卒業するにはある程度まとまった計画を練らねばならず、社会人学生ややむを得ない理由があってこれを選択しているのであればなおさらである。
八洲学園大学では月に一度の説明会(という名の交流会)オンライン上で開かれている。e-ラーニングシステムに慣れるには説明を聞くよりも実際にさわったほうが早いのはどう見てもあたりまえで、これに慣れないと授業で困るのは学生である。試験も実地ではなくオンライン完結型。この交流会は「e-ラーニングシステムに慣れる場」と「えん」をつくるためのものであった。
チャット欄を埋めていた人がポロッと出した単語に反応した私が、失礼を承知でメッセージを送ってみると、その本人であることが判明。「連絡をくれてありがとう」と、そこから「学友第一号」となった。
ほんとうに、学友ができたのである。

2022年の冬、12月にその話は舞い込んできた。地元の、静かで雰囲気がよい焼肉屋で食事をしていたときである。交流会をとおしてつながりができた方から「すみっコ図書館に行きませんか」と連絡をもらった。
実際に顔を合わせる機会ができる──この誘いはとてもうれしかった。聞けば教授からお誘いがあったというので「行かせていただきたいです!」と即答していた。まず「行かない理由が思いつかない」。
すみっコ図書館訪問は年明けの予定であり、話は一旦落ち着いた。それからひと月経たずに、今度は「(すみっコ図書館のお誘いをくれた教授が)シンポジウムの受付やカメラ役を探しているらしいのだけど」ということで再び連絡をもらった。
こんなチャンス、二度とない。シンポジウムは参加ならまだしも、お手伝いとして携われるなど、この先どう考えても絶対にやって来ない。このお誘いはおおきな「えん」になった。

おおきな「えん」は、ふたつあると書いた。
ひとつの「えん」は都内の大学で開催されたシンポジウム。内容は「大学図書館における障害学生支援のいまとこれから」という専門的なものであった。
このシンポジウムが始まる前に、教授と「学友第一号」にあいさつした。チャットの雰囲気そのままの、気さくで楽しい方であった。

図書館は基本的に誰でも利用することができる。それは学校教育現場や研究機関でも同じである。「どうすればよかったか」の事例と3年間の研究を通して見えてきたことの発表が主で、私はお手伝いにきた方と一緒に、受付で案内をした。その方こそが「学友第二号」である。

教授や学友には詳しく話さなかったが、私は軽度でのASD傾向があり、最初はこの貴重でありがたいお誘いを断ろうと思っていた。が、学友が一緒にいる、という安心感があったからだと思う。自分で自分を褒めてもよかった。いつもの私なら、とてもではないが考えられなかった。
この教授のスクーリングはとてもわかりやすい、と学友がいうので受講しようと思っていたが、すでにテキスト履修で学習を終えていた「児童サービス論」のことであった。どうやら学校図書館を研究対象にしているというので、少しずつ興味がわいていた「学校図書館」についても学ぼうかということになり「学校図書館情報サービス演習」の受講を決めた。
たしかに、楽しい。楽しいが、考えることは山ほど出てきたように思う。学校図書館は「第二の心臓部」であり、なるほどそうだなと自分が学生のころの図書館はどうだったろう、などと思い出しながらスクーリングを受講している。

もうひとつの「えん」はシンポジウムのお手伝いと同時期にやってきた「すみっコ図書館」へのお誘いである。

上記記事をお読みいただいた方はなんとなく察したと思うが、図書館のような雰囲気ではない。
「ここ、学校図書館ですよね?」
校舎の隅ではあるが、そこは間違いなく「学校の敷地内」である。
学芸員の資格は司書課程が落ち着いたらと考えていたが、学費の値上げを言い渡されてしまった。資格取得&卒業まで、もう少しかかりそうである。

多少の不安もあったが、このふたつの「えん」によりできたつながりはおおきかった。

・煙たがられるのも「えん」で、しまいには崩壊する「えん」の中にあるのも、たしかな「えん」

冒頭にあげた、炎と煙。えんえん。決して泣いているわけではないが、泣きたい「えん」もたしかにあった。
煙たがられることもあったし、飛び火することもあった。煙たがられるのは今も昔もそう変わらないので、もうそういう性質だと諦めたほうがいいのかもしれない。
大学ではそのようなことはない。ただ、チャットのみのやり取りしかできないため、画面の向こうでは、なにを思っているのかなど当然わからない。

ふだんから去る者追わずを徹底したいところであるが、どうにもそうさせてくれないのがTwitterと Facebook。どうしたって、なにをしたって「関連性のある」ものをお構いなしに提示してくる。ありがた迷惑な話である。「見なければいい」というのは簡単であるが「見ない努力」のほうがエネルギーを使う。これもまた泣きたいくらいに面倒で、好みの猫を探すより疲れる。
避けるべき単語やユーザーはなるべく避ける。心を平穏に保ちたいならSNSから離脱すべきだという人もいることだろう。しかし私はいつまでも考えてしまうタイプであるから、ほんとうならTwitterも Facebookも、アカウントを持つべきではなかっとと考えた時期もあった。
「自分の居場所を狭めることになっている」それらを「えん」と考えるのは、実はおかしくて非常にバカらしいことなのかもしれない。つながりを持ちたくて手を出したものの、使い方を間違えて煙たがられていると思ったからである。
ただ、この「えん」でつながれた関係もある。大学、小説、King Gnu、ぷよぷよ、note……学友との関係を築けたのも、仲間たちと知り合えたのも、間違いなく煙たがられるほうの「えん」が連れてきた、ありがたいほうの「えん」であった。
煙たがられるほうの「えん」も、捨てたものではないらしい。まったく、変な「えん」である。

火のないところに煙は立たない。なるべく静かに暮らす努力はしたい。できなかったら、それまでである。いくら「好き」でつながっても、結局は人同士。合う合わないは当然ある。
「特定の中にいると、それ以外の情報を受け付けなくなる」ようなエコーチェンバーやフィルターバブルに似た「なにか」はどこでも発生するものらしい。
同意はしても「絶対そうだ」と言いづらかったり、肯定はしても「少しの否定」は持っていたかったりする──だから離れる人が多いのだ、と区切りをつけられる余裕など、実はない。
気づいてくれる人だけでいい、というと「あの人はいつもそうだ」と後ろ指をさす人がどこかに必ず現れる。私もそうであるが、表面しか見えない人はこの傾向が強いように思う。「えん」の中にいて、すっかり染まってしまった人は「えん」の外側をどう見ているのか気になるところではある。
私のことをどう思おうが、その人の勝手である。勝手ではあるが「知っている」の「えん」にふくめておいてほしいと思うのは、変なことになるのか。

フィルターバブルを図に表すと「円形」になることが多い。円形、すなわちフィルターバブルも「えん」ということになるのではないか。
いい意味でも悪い意味でも「えん」は、しつこくついてくるようである。

・「えん」を考えすぎた結果

冒頭で「円」という漢字を変換したときであった。「円 まる」に置き換えて検索をかけたところ『「丸」と「円」の違い(どちらも「まる」と読めるので)』のような関連記事が出てきて読んでしまった。読み進めるうちに「円」という漢字がゲシュタルト崩壊を起こした。
縦棒3本と横棒2本という単純な組み合わせの漢字。これがいけない。どうしてこう「単純な構造をした字」はゲシュタルト崩壊を起こしやすいのか。

「それは、『えん』を考えすぎるからだよ!」

「円」がゲシュタルト崩壊を起こした翌日、買い物で会計機が吐き出した釣り銭は255円。100円玉2枚と50円玉1枚、それと5円玉1枚。
一番多く硬貨を使う金額は「999円」である、と意味のわからないことを思い浮かべながら、買ったものをエコバッグに詰め、店をあとにした。

500円玉1枚と100円玉4枚、50円玉1枚と100円玉4枚、それに5円玉と1円玉4枚→999円。
硬貨を使ってお金を数えるのは「素数を数える」のと同じような効果を持っているのかもしれない。

どうやら、私たちはほんとうに「えん」から離れられないようである。

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うるら(あっぷ)
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