分かろうとしない。だから、分かること。
昨日は、理想像や目標は、一つに絞ろうとしなくていいという話をしました。
目標が、決められない。
やりたいこと、進みたい道が分からない。
どっちへ向かうのが、正解なのか?
いま自分が見えている範囲のみの情報で、何とか間違いのない一本道を探し出そうとして、足を出せずにグルグルしている。
飛行石がラピュタの位置を光で指し示すように、進むべき道筋を指し示す何かを、手に入れなくては。
もっと学べば。もっと、探せば。わたしにも、それが手に入るはずなんじゃないか。
そんなふうに、迷子になったような気持ちで
一歩も動けなくなってしまったこと、ありませんか?
わたしは、ずっと、そんな感覚を抱いていました。
世間には、子供の頃から一つの高みを目指し、道をきわめ、成し遂げている人もたくさんいます。
そういう生き方はかっこいいし、憧れる。
わたしにも、秀でた才能や、寝食を忘れて打ち込めるような。好きで好きでたまらないなにか、一生涯かけて追い求める何かが、あればよかったのに。
そう思ったことは、数知れません。
けれど、そもそも「正しい一本道」なんて、存在しないのです。
それを手に入れて成功しているように見える人でさえ、初めから成功が見えていたわけではありません。
進むことを選択し、生き方を選択して進んでいくことで、選んだ道を正解にしていったのです。
そこまでには、表面上は見えていない、挫折や失敗もあったことでしょう。正解ばかりではない、大成功ばかりではない道を、誰しも歩んでいるのです。
道を見つけていて、スゴイ!と、周囲から思われている人だって、本人からすれば、まだまだ道半ば、正解に辿り着いていない、ゴールが見えないと思っていることもあります。
では、やりたいことを見つけ、決めた道を進んでいるように見える人と、選べない〜分からない〜と、迷子になっている人の違いは、一体何なのか。
それは、「まず歩き出してみる」こと。
地図を読んでも、ナビに聞いても
道順は分かっても、その道のことは分からない。
進んでみなければ、その道がどんな景色で、どんな風が吹いていて、誰に出逢うのかは分からない。
ずんずん進むのが怖ければ、そろりそろりと、少しずつ進んだっていいと思うのです。
どんな道も、行ってみなくちゃ分からない。
現代社会では、様々な自然現象に対して、科学的な解が与えられつつあります。
この事象のメカニズムは。原因は。エビデンスは。
そのように人類は、人智を超える現象を何とか理解しようと、たくさんの智慧と労力を用いて努力してきました。
それは、『分かる』ことは、『安心』につながるから。
そのおかげで、われわれ人類は発展し、生き延び、便利な生活を築き上げてきました。
しかし、すでに解が与えられていることによって、「分かったような気になって」見えていないものがあるんじゃないだろうか。
これは、こういうことだよ と教えられることによって、見えなくなったり、感じ取れなくなったり、取りこぼしているものがあるんではないか。
太古の昔、人々は「分からない」ことだらけだったことでしょう。
でも、自然を五感で感じ、見つめ、受け入れ、自らを適応させて生き延びてきた。
その頃の人たちの「ものの見方」「分かり方」というのは、もしかすると、「分かったような気になって見ている」わたしたちよりも、
もっと沢山のことを受け取り、咀嚼し、体で
「分かって」いたのじゃないかな、と思うのです。
昨年から、山での暮らしを始め、自然の中のほんの片隅をお借りする気持ちで住まいする中で
「分からない」ことに、沢山遭遇しました。
わたしの知識の引き出しにはない。
グーグルで調べても、出てこない。
どこかの本に載ってるかもしれないけど、それがどこにあるかも分からない。
調べて答えらしきものが出てきたとしても、果たしてそれがほんとうに正解なのか?この状況にも、使えるのか?
それが分かりません。
この草はなに?
この虫はなに?
こんなとき、どうすればいいんだろう?
どのやり方が、合っているんだろう?
そんな時、一番役に立ったのは、ただじっと観察してみること。そして、人に聞いたり、思いついたりしたことを試してみることでした。
観察すれば、分からないなりに、対象を知ることができます。
そうすれば、近付き方が分かってくる。おぼろげながらも、幾筋かの道が見えかかってくる。
そうなれば、次は何かアクションを起こしてみる。
上手くいくこともありますが、大抵、どこか失敗します。でも、アクションを起こせば必ず反応が起こり、気付きがあります。
反応がない場合は、『反応がない』という知見が得られるということ。
それを繰り返すことで、いつの間にか、「分からない」なりにも対処法を見つけ、次に進むことができるようになります。
ポイントは、「分からない」まま、ということ。
分からなくても、コントロールできなくても、共存していくことができる。
受け入れて、暮らしていくことができる。
分かろうとしないからこそ、自分の一部となる。
そしてそれは、自分が体で知っている、自分で造りだした道となっていくのだと思うのです。
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