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向日葵の咲かない夏 読了

道尾秀介先生著「向日葵の咲かない夏」 読了


本を手に取り、お気に入りのブックカバーにセットして。
そしていつものように半ば緊張しつつ息を吸い込んでページをめくった時、思わず呼吸という概念を忘れたような感覚に陥った。

ぞわりと背筋が震えるような、そんな感覚。
自分の脳内で、これはやばい、やばいぞと誰かが叫んでいる気がした。

読み終えた後に見返しても、感覚が麻痺しているのか正直そこまで驚くことのない、シンプルな一文。
けれど読み始めた時は確かに、これまで覚えたことのない衝撃が自分の中を走った。

夏。
季節の中で自分が最も好きで、──そして最も切なくなる季節。
そういう好みも関係していたのかも知れないけれど、これほどの感情が自分にあったのかというほど、心が揺れた。

ここ最近、夏バテなのかそれとも疲労のせいなのか、苛立つほどに鈍く、凝り固まっていた自分の中の感受性が、絡まった糸がするりとほどけるみたいに、ふっと和らいだ。


読み進める中、途中まで、首を捻っていた。
向日葵と、この小説の繋がりが見えなかった(ただ単に自分が読み落としていただけなのかもしれないけれど)。

最後の方になってようやく、タイトルの「向日葵」の意味も、「咲かない」の意味も、全て分かった。

でも例え、中身に繋がりのない、言い方は悪いけれど表面上のタイトルがこの小説に付いていたとしても、
そんなものはどうでも良くなる程、なんとも言えない魅力と、そして切なさをこの小説は含んでいる。

この小説に登場する「僕」、つまり「ミチオ(今単語を打ち込んで思ったのだけれど、道尾先生の苗字を敢えて付けているのだろうか。偶然だったにせよ、また鳥肌が立ってしまった)」、「S君」、僕の妹「ミカ」、「トコお婆さん」、「泰造(お爺さん)」、そしてメインではないけれど度々名前が登場する、「スミダさん」。
沢山の人物が登場するものの、何故か頭がこんがらがることなく、すっと内容が頭に入ってきた。
それはきっと、その登場する人物一人一人に、道尾先生が吹き込んだ『生命』のようなものがあるからだと思う。
だからこそ、こんがらがることもなく、どちらかと言うと一人一人になった気分で読むことが出来たのではないかなと思った。


終業式の日、学校を休んでいたS君にプリントを届けるために、S君の家に行ったミチオ。
そこで目にしたのは、──首を吊っている、S君の変わり果てた姿

慌てて学校へと戻り、担任である「岩村先生」に事情を説明すると、先生は警察とともにS君の自宅に行った。
しかし、そこにはS君の遺体はなかった、と言う。

そんなミチオの元に、S君の生まれ変わりだと言う蜘蛛が現れ、
「僕は、岩村先生に殺されたんだ」と驚きの言葉を発した。

ネタバレをすることになってしまうのでこれ以上内容に触れるのは辞めておくけれど、どのページを読んでいても、絶えず緊張感のようなものが纏わりついていた。

そして特に、最後。
理解するまで少し時間が掛かったけれど、理解した時には鳥肌が立った。

ミチオはこれまでも、そしてこれからも、孤独であり続けるのだろう。
けれど、その孤独の中には一種の安心感のようなものがある、と個人的には感じた。

何にせよ、これほどの巧みな表現、文章や発想、そしてそれを一つの小説としてまとめ上げた道尾先生は、本当に偉大な方だと思う。

どうしてもっと早くこの先生の存在を知っていなかったのかとなんだか悔しいような気持ちになる一方で、
今、この時期に出会ったことが必然であるような気にもなる。
これまでに味わったことのない感覚なので言葉には到底できないけれど、この衝撃と感動を、忘れたくないなと思う。

だからこそ、拙いながらも文章に起こし、そして残したい。
あわよくば、同じではなくともこの感情に近いものを感じた人と、語り尽くしたい。
そんな風に思う。


最後に、こんな素敵な小説を執筆してくださった道尾秀介先生、並びにこの小説を世に送り出してくださった出版社の方々に多大なる感謝を込めて。


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